北北海道を牛柄トラックで駆ける牛削蹄所。菅原道北削蹄所のオフィシャルサイトです。

スタッフ紹介を更新しました。

2020-12-28 Category サイト更新情報 | コメントは受け付けていません。

冬の安全運転講習会

令和2年12月28日(月)事務所にて冬の安全運転講習会を行いました。

講師は当社の渡辺で車の原理や理論など実際のシュミレーターで冬道をどう運転したらいいかをスタッフ一同学びました。

その模様をフォトでお伝えします。







by Rimu

2020-12-28 Category コラム, 当社 | コメントは受け付けていません。

Hokkaido Photo 12/28



事務所にて
by Rimu

2020-12-28 Category rimu, 風景フォト | コメントは受け付けていません。

Hokkaido Photo 12/24



和寒の牧場にて
byRimu

2020-12-24 Category rimu, 風景フォト | コメントは受け付けていません。

反芻(はんすう)と生乳が出るしくみ


牛の胃袋はおなかの部分の 4 分の 3 を占めるほどあり、4 つに分かれています。一番大きな第 1 胃は、160リットルもの容積があります。口から入ってきた草などは、まず第 1 胃に収まります。ここで数々の微生物に
よって、繊維分を分解し、微生物を増殖させながら食物を発酵させます。 反芻をくり返したのち第 2、3 胃で繊維分をさらに細かくし、第 4 胃で消化します。ここで、食物の栄養分と自分の第 1、2 胃で増えた微生物を消化し、栄養分として取り込みます。自分の体に発酵工場を持っているのが牛の胃の特徴です。

反芻(はんすう)
牛は食物を消化するため、一度第 1 胃の中に入ったエサを口に戻してゆっくりとすりつぶします。これを反芻(はんすう)といいます。1 日の反芻時間は 6~10 時間で、1 分間に 40~60 回もかみます。牛がいつでも口を動かしているのはそのためです。かんでいる間に、唾液(だえき)が分泌され、この唾液がエサを湿らせてのみ込みやすくしたり、胃の中の微生物の働きを活発にして消化を助ける働きをするのです。唾液は 1 日に 90~150 リットルも分泌されます。

乳房
乳房は生乳を作る大事な器官です。実際に生乳を作っているのは、乳房の中の乳腺細胞です。ここでは血液から運ばれてきた様々な栄養素を取りこんで、生乳の成分に作り変えます。1 リットルの生乳を作るために、400~600 リットルもの血液の循環が必要なのです。1 日 45kg の生乳を出す高乳量牛では、乳房の中を通る血液の量は 22.5 トンにもなります。

引用文献:中央酪農会議

2020-12-24 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

Hokkaido Photo 10/31



令和2年度9月25日(金)片山削蹄所VS菅原削蹄所ソフトボール大会

有限会社カタヤマ 片山削蹄所はこちら!!

2020-10-31 Category rimu, 風景フォト | Leave a Comment

Hokkaido Photo 10/24



本日の美幌峠

photo by Katayama

2020-10-24 Category sugaWara, 風景フォト | コメントは受け付けていません。

令和2年度 片山削蹄所 秋の大収穫祭!!

令和2年度9月25日(金)北見市 片山削蹄所事務所にて今年も秋の大収穫祭が行われました。
その模様をフォトでお伝えします。








みなさんお疲れ様でした。

2020-9-30 Category コラム, 当社 | コメントは受け付けていません。

千葉県は日本の 酪農の発祥地

嶺岡牧と白牛酪考

千葉県は、関東地方の南東側で房総半島と関東平野の南部にまたがり平野と丘陵が大半を占め、海抜 500m以上の山地がないのが特徴となっています。標高が低いため全体的には温暖な気候で太平洋側気候に属しています。しかし一年中温暖な海洋性気候である南房総に対して下總台地など内陸部は内陸性気候で冬は寒く、山地が無いにも関わらず意外にも多様性にとんでいます。律令制以来の「房総三国」である上総の国、安房の国、下総の国の一部から成り立っています。産業では醤油の発展の歴史や生産量が群を抜いており、温暖な気候であることや大消費地が近いことから、農業が盛んであります。加えて三方が海に面していることから水産業も盛んになっています。第 8 代将軍徳川吉宗が嶺岡牧に白牛 3 頭を放ち、この牛から搾乳して造った「白牛酪」によって、わが国の乳文化が 5 世紀ぶりに甦るとともに新しい乳文化が始まりました。ここで始まった白牛酪の製造や白牛の飼育技術などが、その後の日本酪農につながっていることから、嶺岡牧は日本酪農の発祥地として、千葉県文化財保護条例によって 1963(昭和 38)年に史跡として指定されました。嶺岡牧に放された白牛は除々に繁殖し、御小納戸頭・岩本正倫が白牛調査のため嶺岡牧についた 1792(寛政 4)年には白牛が 70 頭まで増殖していたので、幕府侍医桃井源寅に「白牛酪考」を箸述させました。この書物は表紙を含め 19 枚の小書に過ぎませんが、白牛のその後の運命や白牛の乳利用と効能について記述されているのでわが国最初の乳製品専門書として大変貴重なものといえます。また、序文のなかで岩嶺岡牧と白牛酪考 本正倫は白牛の乳から乾酪を造り、第 11 代将軍徳川家斉に献上したところ大変喜ばれ、さらに継続して造り、庶民にも施すよう命ぜられたことが記載されています。1793(寛政 5)年に野馬掛になった岩本正倫は江戸の野馬方役所に牛舎と牛酪製造所を設け、嶺岡牧より搾乳できる白牛母子を野馬方役所に送り、そこで白牛酪を製造しました(1867(慶応 3)年迄製造が続いたようです)。この白牛酪がどういったものであるのかについて、「白牛酪考」のなかでは「乾酪」であることや、「…白牛酪一魂を贈られる…一日三度用い…」と記されているように、分割できるような形をしていたこと以外は不明であります。しかし、3 代先の嶺岡牧の牧士触頭格であった永井要一郎が残した談話では「…白い牛の乳を鍋に入れて砂糖を混ぜ、火にかけて丹念にかき混ぜながら石鹸位の固さになるまで煮詰めてもので、亀甲型にしてあった。そして非常に貴重なもので、病人などはそれを削ってお茶で飲んだりしたといわれている。…私もごく幼少の頃、祖父につれられていって、それを舐めたこともあったが、今考えてみても非常にうまかった。この白牛酪を作るのは青銅の鍋に限っていた…」となっており、また江戸から嶺岡にあてた手紙になかで「柔らかい中に箱につめると、特に黴がひどくなるから充分固くして送ってほしい」との意味が述べられていますので、多少その実態が想像できそうです。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-9-22 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

明治期からの乳製品を 食べた山形の習慣(山形県)

興譲館と米沢牛
山形県は日本海に面しており、東側一帯は奥羽山脈、西側には朝日連峰がそびえています。このように県内の大半(85%)を山地が占め、森林と農地の割合が多いのが特徴です。日本海側気候なので豪雪地帯ですが、緯度の割には温暖です。特に、夏は熱帯夜になるほど蒸し暑く、冬は温暖で日照時間が短いという特色があります。山形県の古墳文化の到来は早く、今でも各地に現存しています。また、越後とともに出羽の国として栄えたことは既知のとおりです。近代においては戊辰戦争の戦後処理として、米沢、上山の各藩が減封するなど幾多の再編を経て、現在の山形県が誕生しました。山形県の畜産の歴史は古く、特に“産牛”については米沢藩第四代藩主・上杉綱憲のときの 1681(天和元)年に、牛への課税の達しがありました。置賜地方では既に南部から“上り牛”を導入しており、農耕を目的に牛の飼養が奨励されていました。

英国人教師が立役者
上杉鷹山が創設した藩校が 1871(明治 4)年に「米沢興譲館洋学舎」として設立されると、洋学科教師に英国人のチャールズ・ヘンリー・ダラス(1842~ 94)が招しょうへい聘されました。ダラスは教きょうべん鞭を執る傍ら、畜牛を飼養したことで有名でした。任期を終えたダラスが 1876(明治 9)年に横浜居留地に帰るとき、米沢牛を 1 頭持ち帰り、英国人仲間にごちそうしたところ「大変美味」と好評だったとのことです。これが興譲館と米沢牛英国人教師が立役者後に米沢牛が有名になった由縁です。文明開化が漂う横浜で、ダラスが米沢牛を紹介した功績をたたえて“米沢牛の恩人”という顕彰碑が米沢城址内に建立され、今でも地元の人たちは彼の遺徳をしのんでいます。

牛乳事業の始まり
一方、牛乳事業において鹿野兼次の役割を無視できません。蘭医で将軍の侍医であった松本順らが 1872(明治 5)年に旧酒井家神田柳原中屋敷に牛舎を建て、鹿野はその牛舎で搾乳法を学び、牛乳を搾り、病院用に提供していました。1876(明治 8)年には山形県の要請で旧県庁近くに牧畜場をつくり、自らその監督を務めて牛を飼養し、品種改良の研究に没頭するなど明治中期の畜産発展に貢献しました。その後の 1882(明治 15)年、息子の鹿野善作が父(兼次)の事業を継承しました。酒田で搾乳業を始めるとともに、「蕨岡牧場」と共同で純良の牡牛を放牧し、従来の和牛の改良推進を図りました。一方、1894(明治 27)年に高畠町の梅津勇太郎(1876 ~ 1940)は宮城県刈田郡七ヶ宿に「大野沢牧場」を開設し、エアシャー種牛を導入して牧場経営を行いました。さらに、1899(明治 32)年には牧場適地を選び、山林 400 町歩を借り受けて放牧を開始しました。同時に、牛を飼養するために数十種の牧草種子を購入して試作を行いました。この種子を牧場に播種したところ良好な栽培結果を得たため、牛の放牧や種付けを嘱託する人が増加し、1906(明治 39)年には 300 余頭が飼養されていたといわれています。1900(明治 33)年、高畠町の大河原友吉は岩手県からホルスタイン種牛を初めて導入しました。そして、1901(明治 34)年には奥羽線の開設により、千葉、岩手、北海道などの酪農先進地から乳牛の導入を図ったのでした。

乳牛の改良研究が本格化
1904(明治 37)年には新庄市高壇に「山形県種畜場」が創設され、主として馬産育成の拠点となっていました。1911(明治 44)年には長井市今泉に分場が設置され、ホルスタイン種およびエアシャー種の種牡牛が導入され、乳牛の改良研究が行われました。また、鶴岡町の三井四郎兵衛も牛を飼い、牛乳を販売していました。彼の息子の弥七郎は 1896 ~ 1901(明治 29 ~ 34)年まで東京農科大学および下総御料牧場、さらに東京付近の搾取家で実地研究を行い、短角種 6 頭を買い入れて家業を助けました。当時はゼルシー種、短角種など 80 余頭を飼養していました。しかし、牛にツベルクリン反応検査の注射を行ったところ、結核病にかかってしまうなど苦労の連続でした。それでも 1905(明治 38)年には搾取業を再開するとともに、機械を導入して殺菌牛乳を販売しました。

粉ミルクの製造
1912(明治 45)年に、高橋萬次郎らが「和田製乳所」を創立しました。さらに、1913(大正 2)年に梅津勇太郎らがバターおよび粉乳を製造して成功すると、1919(大正 8)年には酪農家 192 人の出資金10 万円で農民資本「日本製乳株式会社」が設立されました。こうして山形県で初めて粉乳製造が開始されたのです。製品は「おしどりコナミルク」の商標で、東京・銀座の洋酒缶詰問屋・長井越作が一手に販売しました。初めは製造技術も幼稚で、いろいろ苦心しましたが、当時の北海道大学教授の宮脇富の指導を受けるに及んで、着々と品質の向上・改善が図られました。1931(昭和 6)年には画期的な遠心式噴霧乾燥装置を導入して実用化を図ったことから、戦前には「粉ミルクといえば“おしどり”」と言われるほどでした。戦後の酪農経営は、高畠、上山、山辺、成生、柴橋地方などを中心に発達しており、ここから生産された生乳の処理工場として、当時は「北部酪農協」「山形酪農協」「大谷農協」「東北酪農協同株式会社」「明治乳業株式会社」、そして前述の「日本製乳株式会社」などがありました。その後、組織再編などが行われて今日に至っています。

八百屋が販売した煉粉乳
このように、山形県では乳牛の飼養および粉ミルクの製造には苦難の歴史がありました。一方で、明治20 年代に既に煉れん乳や粉乳を販売していたという実績もあります。それが当時の鶴岡町荒町で商売をしていた「八百屋市郎治商店」(八百屋は雅がごう号)です。同店の引ひきふだ札(チラシ)を見ると、ミルク各種(煉れん乳、粉乳など)のほかに、和洋缶詰、乾物、こんにゃくなどを取り扱っていたようです。今でいう食料品店であったと思われますが、こうした新しい商品も既に販売していたのです。このように、この地の人々は明治時代から既に乳製品を食べる食生活を送っていました。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-8-31 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

酪農乳業発展史(北海道)

■お雇い外国人から学んだ酪農乳業

函(箱)館の開港と牛乳
1855(安政 2)年、函館は、燃料、水、食料などの補給のために開港しました。アメリカ貿易事務官エリシャ・E・ライスは、大統領の親書を持って捕鯨船に乗り、1857(安政 4)年 4 月にやってきました。箱館奉行村垣淡路守の公務日誌や日本古文書館 16巻によると、ライスの功績は数々の欧米文化を伝えたことだといわれています。ライスは西洋種子類の植え付け、緬羊の飼育法、パン・煙草の製造法など新知識を紹介しました。何よりも特記することは牛乳の搾り方を教えたことでした。彼は牛乳を飲むため、箱館奉行に願い出て領事館構内(現在の函館市立弥生小学校周辺)で牝牛 2 頭を飼育しました。そして牛乳飲用について多くの人々に奨励しました。これが北海道の乳文化の始まりであると記録を残しています。

お雇い外国人の功績
明治新政府にとって、ロシアの南下に対する防衛線を構築するため、北海道開発が重要な課題でありました。このため札幌に開拓使が出来るまで東京都港区芝の増上寺の境内に開拓使仮庁舎を置き、1869(明治 2)年に開拓使の仕事が始まりました。1870(明治 3)年、政府は、黒田清隆を開拓使次官に任命しました。黒田は開拓に長じる外国人の雇用と開拓用の農器具などの購入のため、1871(明治 4)年にアメリカに渡り、ホーレス・ケプロンを開拓使最高顧問として招聘するとともに、開拓に必要な家畜、飼料種子、機械を購入しました。ケプロンには外国人の起用、人選、職務など多くの権限が与えられていました。そのケプロン自身の開発構想に基づき、それに必要な技術者が学識経験者として起用されました。北海道の開発政策を推進する有能な日本青年の人材育成が必要であるとして札幌農学校が設立され、マサチューセッツ州立大学学長クラーク博士に副校長として着任することなどを依頼しています。ケプロンの斡旋および推挙によって官費で雇い入れたアメリカ人は、技術および学識経験者など 48 名でした。特にエドウィン・ダンは酪農乳業に貢献したお雇い外国人でした。1873(明治 6)年に、開拓使が購入した乳牛と共にエドウィン・ダンは来日しました。東京第 3 官園(現在の東京都渋谷区広尾 4 丁目の日赤医療センター付近)では家畜の取扱法、農具の使用法、乳製品の製造法を、七重官園では馬の去勢法などを教えました。そして真駒内牧牛場を建設して、ここに 100 余頭の乳牛を飼養しました。さらに 100ha の飼料畑で牧草を栽培し、オーチャードが適種であると認められました。またバター・チーズ・煉乳の製造法の指導も行いました。さらに馬で御す洋式農具の使い方も指導しました。1883(明治 16)年にエドウィン・ダンは北海道の農業・畜産指導の功績で勲五等双朝光旭日章を受章しました。これらの功績について、エドウィン・ダン記念館には多くの資料が現在も保存されています。

尾張士族が興した八雲の酪農郷
より浅山八郎兵衛門が移住者とともに開拓の鍬をおろしたのが始まりです。次いで 1878(明治 11)年、旧尾張藩主・徳川慶勝が禄を離れた家臣たちの授産対策を目的に 150 万坪の土地の払い下げを受けました。そして、この地に理想郷の建設を目指して旧藩士たちを移住させ、本格的に開拓が始まりました。1878(明治 11)年から 1888(明治 21)年までに 114 戸 4,000人が移住して、開拓が進められました。その中には旧尾張藩の侍たちが造った「養牛舎」で搾取技術を身に付けた士族も参画をしました。徳川家の移民に対する援助は強力なものでありましたが、これは尾張藩の「めんつ」をかけたものであったといわれています。初代の徳川農場長になった大島鍛は札幌農学校を卒業し、科学的農業とキリスト教的論理を身に付けた指導者であったといわれています。徳川家開墾地の事業は 1907(明治 40)年に一段落し、無償で土地をもらった 75 戸の士族が定着しました。1885(明治 18)年に渡英した徳川義礼に随行した吉田知行は、牧草をまき、乳牛の飼育を学んだり、奨励したりして、八雲の酪農の指導を行いました。このように町民は愛知県出身者の子孫が多く、今でも徳川尾張藩士の末裔として誇りと自尊心を持って酪農に従事しているといわれています。

トラピスト修道院と酪農の発展
トラピスト修道院(北斗市三ッ石)は、1896(明治 29)年に、フランスのノルマンデーの修道院より男女の修道士が来日し、誕生しました。構内の荒地の敷地を開墾し乳牛を飼い、乳製品の製造を行う自給自足の生活でした。その頃は日清戦争の最中であったので軍事探偵とか、流浪罰人などといわれ、土地の人々にはなかなか理解が得られませんでした。しかし、荒地と原野を開拓しながら農民に酪農を奨励すると、多くの人々が心を開きました。このトラピスト修道院の指導者であったジョアン・パプチスクはオランダ生まれで、牧場管理人を経てローマで修道士になり北海道にきました。1897(明治 30)年に道産雑種牛 12 頭から酪農事業を始めました。1900(明治 33)年に付近の農家から生乳を集め、バターの製造販売をしました。1902(明治 35)年に弟タルシスが、1908(明治41)年に兄ジョアンがオランダに出向き、ホルスタイン種の牡牛 2 頭および牝牛 8 頭計 10 頭購入してきました。トラピスト修道院による乳牛の輸入は大変話題になりました。これらを基礎牛にして乳牛改良に努め、附近の農家に無料で貸し付け、仔牛が生まれたら仔を返す「仔分法」でしたので農家に大変喜ばれました。さらに乳牛飼養が盛んになると 1907(明治 40)年、各区域にトラピスト付属渡振牛酪協会が設立されました。しかし生乳の運搬に不便であったため、集乳所で手回しクリーム分離機を用いてクリームのみ本院製造工場に送り、バターを製造しました。その頃、バターの評判もよく東京・神戸・長崎で販売されました。このようにして北海道の酪農発展の推進力になったのでした。その他、明治期の幕開けとともに、開拓使のもとで近代酪農を導入し、多くの酪農家と関係者が努力を重ねました。特に町村金弥(1859 〜 1944)、宇都宮仙太郎(1866 〜 1940)、黒澤酉蔵(1885 〜1982)の業績は高く評価され酪農王国を支えた酪農御三家といわれています。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-8-13 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

そもそも乳酸菌とは?

ヨーグルトに含まれる乳酸菌の特徴

ヨーグルトを製造するうえで欠かせないのが乳酸菌です。

乳酸菌とは、糖類を分解して多量の乳酸などを生成する細菌の総称で、1857年にパスツールによって発見されました。

乳酸菌は広く自然界に存在し、人や動物の消化管にも生息しており、「健康を受けもつ菌」といわれ重要な役割を担っています。

また、ほかにもチーズ、みそ、しょうゆ、漬け物などにも利用されているのです。

一般的に、ヨーグルトに使われている乳酸菌は、ブルガリア菌、サーモフィルス菌、アシドフィルス菌で、これらに加えてビフィズス菌も使われています。

これらの乳酸菌の種類は、それぞれさまざまな特徴をもつため、組み合わせや発酵温度などにより、製品ごとに異なります。

乳酸菌のもつさまざまな働き

乳酸菌には、代表的な働きとして、次のようなものが挙げられます。

●整腸作用
消化管の有害物質を抑え、菌叢(きんそう)を正常にする。消化管の運動を促進して便通を整える。ビフィズス菌などの善玉菌を増やす。

●消化吸収を促進
牛乳を乳酸菌発酵により栄養の消化吸収を促進する。

●免疫力を高める
病気への抵抗力をつける。

●アレルギー症状の軽減
花粉症などのアレルギー症状をやわらげる。

また、乳酸や酢酸によって保存性を高め、乳酸や微量芳香成分によって風味が向上する効果もあります。

Jミルク

byRIMU

2020-7-13 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

「値段が高い牛乳」と「値段の安い牛乳」の差

「高い牛乳」と「安い牛乳」の差は何?
スーパーの牛乳売り場を見てみると、同じメーカーなのに、約250円の牛乳と約200円の牛乳がある。50円もの差があるのはなぜ?
これは、牛乳に含まれる乳脂肪分の量の差。
牛乳パックの側面には、その牛乳がどういうものなのかという情報が記載されている。この情報を見てみると、「高い牛乳」は「乳脂肪分3.7%以上」と書かれており、「安い牛乳」は「脂肪分1.6%」と記載されている。乳脂肪分が2.1%も違うことになる。




乳脂肪分とは何?
乳脂肪分とは、牛から搾った生乳をしばらく置いておくと現れる、色が濃くなっている部分。この乳脂肪分があることで牛乳にコクが出る。



なぜ乳脂肪分に差が出るのか?
同じ牛から採っているのに、なぜ乳脂肪分に差が出るのか?
「高い牛乳」のパックを見ると、「成分無調整」と書いてある。


一方、「安い牛乳」のパックを見ると、「成分調整牛乳」と書いてある。


つまり、「安い牛乳」は手を加えて乳脂肪分を取り除いた牛乳ということ。

「成分調整牛乳」は一手間増えているのになぜ値段が安い?
牛乳とは、牛から採った生乳を殺菌したもの。


生乳を殺菌しただけで何も手を加えていないのが「成分無調整牛乳」となり「値段が高い牛乳」、生乳を殺菌して乳脂肪分を取り除いたのが「成分調整牛乳」となり「値段が安い牛乳」となる。


「成分調整牛乳」の方が安いのは、取り除いた「乳脂肪分」に秘密がある。取り除いた乳脂肪分からバターや生クリームを製造し、販売することで利益を得られるため、「成分調整牛乳」は安く販売できる。


「成分無調整牛乳」と「成分調整牛乳」の味の差は?
「成分無調整牛乳」は本来の牛乳の味で、コクや甘みがある。


しかし、約2%の乳脂肪分の差があるにも関わらず、あまり差がないという声も多い。これは、企業努力によるもの。牛乳のコクが味わえるギリギリの乳脂肪分である1.6%を保つことであまり味に差を感じない「成分調整牛乳」ができている。


脂肪を抑えてカロリーを抑えたいという時代のニーズによって「成分調整牛乳」は誕生した。


「低脂肪牛乳」とは?
「低脂肪牛乳」とは、「成分調整牛乳」よりも低い乳脂肪分1.5%以下の牛乳のこと。


乳脂肪分1.6%の「成分調整牛乳」よりさらに安く売られている。


もうひとつある?!値段に差が生まれるポイント!
同じメーカー、同じ「成分無調整牛乳」でも、値段が「高い牛乳」と「安い牛乳」がある。「高い牛乳」のパッケージには、「低温殺菌牛乳」と書かれている。


牛乳のパッケージ側面には必ず殺菌温度が記載されており、「安い牛乳」には「130℃・2秒間」と書いてあり「高温殺菌」のこと、「高い牛乳」は「66℃・30分間」と書いてあり「低温殺菌」になる。


「高温殺菌」の場合、徐々に温度が上がった牛乳が130℃のパイプに到達すると2秒間で一気に通過し殺菌される。高温で殺菌することで賞味期限が約2週間となり長期保存が可能になる。


「低温殺菌」の場合、65℃のタンクの中で30分間殺菌される。低温で殺菌することで、賞味期限は短いが牛乳本来の味を壊さない。


「高温殺菌牛乳」と「低温殺菌牛乳」の味の差は?
この2つは飲み比べると味の差がはっきり分かる。「低温殺菌牛乳」は、牧場で飲む絞り立ての牛乳に近い味。


引用:minnano

2020-6-27 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

Hokkaido Photo 6/26



枝幸町にて
byRimu

2020-6-26 Category rimu, 風景フォト | コメントは受け付けていません。

「寝る前にコップ1杯の牛乳」で筋肉の修復・増強、骨強化に効果

体に対する運動の効果はたくさん示されており、運動と食事のタイミングに関する研究も増えています。最近では、運動を行う時間による効果も研究されており、時間帯によって効果が異なるようです。

運動する時間帯で効果異なる

デンマーク・コペンハーゲン大の動物実験では、「朝の運動は筋肉細胞の遺伝子プログラムを起動させるとともに、より有効にし、糖と脂肪の代謝能力を高め、夕方の運動は全身のエネルギー消費量を長時間増加させる」と報告されました。つまり、筋肉を増やすには朝の運動が効果的で、減量には夜の運動が効果的であるということです。また、糖尿病や脂質異常症の人は、朝の運動がデータ改善につながる可能性が高いということです。

しかし、運動する時間を選べる人は少ないのが現実です。学生であれば、部活動の時間も決まっていますし、社会人であれば、仕事前か終了後、もしくは休日のみという方が多いのではないでしょうか。

目的も人によって様々で、強くなって勝ちたいというアスリートだけでなく、やせたい、体形を格好良くしたい、膝や関節に痛みがあるため軽減したい、ケガや病気で低下した機能を高めるためにリハビリが必要など、強度や練習時間そのものも変わってきます。

参考文献:アスレシピ

眠りの質高め、成長ホルモン分泌促進

今、分かっている中で、運動を行うすべての人におすすめなのが「寝る前に、コップ1杯の牛乳を飲む」こと。就寝中は、大人も子どもも成長ホルモンが分泌され、体の修復を行います。その前にタンパク質を摂ることで、筋肉の修復・増強ができます。

また、カルシウムが吸収され、骨に蓄積されるためにも、就寝前のカルシウム摂取が有効という報告があります。さらに、睡眠ホルモンであるメラトニンの原料としてトリプトファンが必要ですが、牛乳にはトリプトファンが多く、メラトニンを増やすことで眠りの質を高め、成長ホルモンの効果も高めてくれます。

byRimu

2020-6-20 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

Hokkaido Photo 6/19



PENTAX K-S2
smc PENTAX-DA 18-135mm F3.5-5.6 ED AL[IF] DC WR
photo by EITARO (sato)

2020-6-19 Category eitaro, 風景フォト | コメントは受け付けていません。

Hokkaido Photo 6/13



PENTAX K-S2
smc PENTAX-DA 18-135mm F3.5-5.6 ED AL[IF] DC WR
photo by EITARO (sato)

2020-6-13 Category eitaro, 風景フォト | コメントは受け付けていません。

日本における闘牛


牛と牛が戦う競技は、闘牛のほかに、牛相撲、牛突き、牛の角突きなどと呼ばれ、岩手県久慈市、新潟県二十村郷(長岡市、小千谷市など)、島根県隠岐島、愛媛県宇和島市、鹿児島県徳之島、沖縄県沖縄本島(うるま市、本部町、今帰仁村、読谷村など)、石垣島などで行われている。また沖縄県とうるま市は、2018年に伝統文化である闘牛を無形文化財として指定している。また、徳之島においては毎年、初場所(1月)・春場所(5月)・秋場所(10月)の年3回で6場所の「全島大会」が開催され、徳之島町・天城町・伊仙町の各町の協会が持ち回りで主催している。また、全島大会と前後した日やお盆には、牛主同士が出資して島内各地の闘牛場で闘牛大会が行われている。
1988年までは東京都八丈島でも行われていたが、現在は行われていない。
以下に記述するスペインなどの闘牛とは異なり、むしろ闘犬に近く、相撲のような競技である。大相撲のような番付により牛の優劣が格付けされる場合もある。また新潟の牛の角突きでは勝負付けを行わず、神事であることや牛が傷つかないようにといった理由で引き分けにさせる。

起源
起源についてはどこも明確な資料は存在せず、自然発生的なものから、神事として始まったものもあるとされる。史料上は、1178年に後白河法皇が角合せを観覧したとの記録があり、12-13世紀の『鳥獣人物戯画』にも闘牛が描かれている。隠岐島の闘牛は承久の乱(1221年)で配流された後鳥羽法皇を慰めるために始められたとされている。

新潟県長岡市山古志地域・小千谷市で行われる牛の角突き(国の重要無形民俗文化財)は、江戸時代後期に書かれた曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』に登場しており(馬琴はこの行事を、塩沢町の商人で『北越雪譜』の著者鈴木牧之から紹介されている)、この頃には既に始まっていたのは確かである。

闘牛に用いられる牛の種類
黒毛和牛、日本短角種がその多くを占める[9]。新潟県の闘牛では子牛の生産地が岩手の南部地方であるため日本短角種が主。「肉用牛の子牛の素質が良い物を去勢せずに闘牛用として飼育」と書かれた文献もあるが、現状、そのほとんどが当初から闘牛用として生産された子牛であり、肉用牛としての登録のなされていないものが多い(島根県隠岐は登録牛を使用、よってその供給先である四国宇和島の闘牛も登録牛が存在する)。最近では有名牛を種牛として使用した子牛も多く登場している。またホルスタイン種と黒毛和牛のF1(交雑種)は体格が良いことから(子牛値段も安いことが多い)闘牛用につかわれている。過去チャンピオン牛にもF1は存在する。

闘牛士
闘牛士は「勢子」と呼ばれる。鼻綱で牛の体勢を調節したり、牛の傍でかけ声(ヤグイ)をかけ励ましたりする。また勝負の済んだ牛を捕まえ鼻綱を取らせるのも勢子の役割で、時には数人がかりでの大仕事となる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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中頓別にて

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