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明治期からの乳製品を 食べた山形の習慣(山形県)

興譲館と米沢牛
山形県は日本海に面しており、東側一帯は奥羽山脈、西側には朝日連峰がそびえています。このように県内の大半(85%)を山地が占め、森林と農地の割合が多いのが特徴です。日本海側気候なので豪雪地帯ですが、緯度の割には温暖です。特に、夏は熱帯夜になるほど蒸し暑く、冬は温暖で日照時間が短いという特色があります。山形県の古墳文化の到来は早く、今でも各地に現存しています。また、越後とともに出羽の国として栄えたことは既知のとおりです。近代においては戊辰戦争の戦後処理として、米沢、上山の各藩が減封するなど幾多の再編を経て、現在の山形県が誕生しました。山形県の畜産の歴史は古く、特に“産牛”については米沢藩第四代藩主・上杉綱憲のときの 1681(天和元)年に、牛への課税の達しがありました。置賜地方では既に南部から“上り牛”を導入しており、農耕を目的に牛の飼養が奨励されていました。

英国人教師が立役者
上杉鷹山が創設した藩校が 1871(明治 4)年に「米沢興譲館洋学舎」として設立されると、洋学科教師に英国人のチャールズ・ヘンリー・ダラス(1842~ 94)が招しょうへい聘されました。ダラスは教きょうべん鞭を執る傍ら、畜牛を飼養したことで有名でした。任期を終えたダラスが 1876(明治 9)年に横浜居留地に帰るとき、米沢牛を 1 頭持ち帰り、英国人仲間にごちそうしたところ「大変美味」と好評だったとのことです。これが興譲館と米沢牛英国人教師が立役者後に米沢牛が有名になった由縁です。文明開化が漂う横浜で、ダラスが米沢牛を紹介した功績をたたえて“米沢牛の恩人”という顕彰碑が米沢城址内に建立され、今でも地元の人たちは彼の遺徳をしのんでいます。

牛乳事業の始まり
一方、牛乳事業において鹿野兼次の役割を無視できません。蘭医で将軍の侍医であった松本順らが 1872(明治 5)年に旧酒井家神田柳原中屋敷に牛舎を建て、鹿野はその牛舎で搾乳法を学び、牛乳を搾り、病院用に提供していました。1876(明治 8)年には山形県の要請で旧県庁近くに牧畜場をつくり、自らその監督を務めて牛を飼養し、品種改良の研究に没頭するなど明治中期の畜産発展に貢献しました。その後の 1882(明治 15)年、息子の鹿野善作が父(兼次)の事業を継承しました。酒田で搾乳業を始めるとともに、「蕨岡牧場」と共同で純良の牡牛を放牧し、従来の和牛の改良推進を図りました。一方、1894(明治 27)年に高畠町の梅津勇太郎(1876 ~ 1940)は宮城県刈田郡七ヶ宿に「大野沢牧場」を開設し、エアシャー種牛を導入して牧場経営を行いました。さらに、1899(明治 32)年には牧場適地を選び、山林 400 町歩を借り受けて放牧を開始しました。同時に、牛を飼養するために数十種の牧草種子を購入して試作を行いました。この種子を牧場に播種したところ良好な栽培結果を得たため、牛の放牧や種付けを嘱託する人が増加し、1906(明治 39)年には 300 余頭が飼養されていたといわれています。1900(明治 33)年、高畠町の大河原友吉は岩手県からホルスタイン種牛を初めて導入しました。そして、1901(明治 34)年には奥羽線の開設により、千葉、岩手、北海道などの酪農先進地から乳牛の導入を図ったのでした。

乳牛の改良研究が本格化
1904(明治 37)年には新庄市高壇に「山形県種畜場」が創設され、主として馬産育成の拠点となっていました。1911(明治 44)年には長井市今泉に分場が設置され、ホルスタイン種およびエアシャー種の種牡牛が導入され、乳牛の改良研究が行われました。また、鶴岡町の三井四郎兵衛も牛を飼い、牛乳を販売していました。彼の息子の弥七郎は 1896 ~ 1901(明治 29 ~ 34)年まで東京農科大学および下総御料牧場、さらに東京付近の搾取家で実地研究を行い、短角種 6 頭を買い入れて家業を助けました。当時はゼルシー種、短角種など 80 余頭を飼養していました。しかし、牛にツベルクリン反応検査の注射を行ったところ、結核病にかかってしまうなど苦労の連続でした。それでも 1905(明治 38)年には搾取業を再開するとともに、機械を導入して殺菌牛乳を販売しました。

粉ミルクの製造
1912(明治 45)年に、高橋萬次郎らが「和田製乳所」を創立しました。さらに、1913(大正 2)年に梅津勇太郎らがバターおよび粉乳を製造して成功すると、1919(大正 8)年には酪農家 192 人の出資金10 万円で農民資本「日本製乳株式会社」が設立されました。こうして山形県で初めて粉乳製造が開始されたのです。製品は「おしどりコナミルク」の商標で、東京・銀座の洋酒缶詰問屋・長井越作が一手に販売しました。初めは製造技術も幼稚で、いろいろ苦心しましたが、当時の北海道大学教授の宮脇富の指導を受けるに及んで、着々と品質の向上・改善が図られました。1931(昭和 6)年には画期的な遠心式噴霧乾燥装置を導入して実用化を図ったことから、戦前には「粉ミルクといえば“おしどり”」と言われるほどでした。戦後の酪農経営は、高畠、上山、山辺、成生、柴橋地方などを中心に発達しており、ここから生産された生乳の処理工場として、当時は「北部酪農協」「山形酪農協」「大谷農協」「東北酪農協同株式会社」「明治乳業株式会社」、そして前述の「日本製乳株式会社」などがありました。その後、組織再編などが行われて今日に至っています。

八百屋が販売した煉粉乳
このように、山形県では乳牛の飼養および粉ミルクの製造には苦難の歴史がありました。一方で、明治20 年代に既に煉れん乳や粉乳を販売していたという実績もあります。それが当時の鶴岡町荒町で商売をしていた「八百屋市郎治商店」(八百屋は雅がごう号)です。同店の引ひきふだ札(チラシ)を見ると、ミルク各種(煉れん乳、粉乳など)のほかに、和洋缶詰、乾物、こんにゃくなどを取り扱っていたようです。今でいう食料品店であったと思われますが、こうした新しい商品も既に販売していたのです。このように、この地の人々は明治時代から既に乳製品を食べる食生活を送っていました。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-8-31 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

酪農乳業発展史(北海道)

■お雇い外国人から学んだ酪農乳業

函(箱)館の開港と牛乳
1855(安政 2)年、函館は、燃料、水、食料などの補給のために開港しました。アメリカ貿易事務官エリシャ・E・ライスは、大統領の親書を持って捕鯨船に乗り、1857(安政 4)年 4 月にやってきました。箱館奉行村垣淡路守の公務日誌や日本古文書館 16巻によると、ライスの功績は数々の欧米文化を伝えたことだといわれています。ライスは西洋種子類の植え付け、緬羊の飼育法、パン・煙草の製造法など新知識を紹介しました。何よりも特記することは牛乳の搾り方を教えたことでした。彼は牛乳を飲むため、箱館奉行に願い出て領事館構内(現在の函館市立弥生小学校周辺)で牝牛 2 頭を飼育しました。そして牛乳飲用について多くの人々に奨励しました。これが北海道の乳文化の始まりであると記録を残しています。

お雇い外国人の功績
明治新政府にとって、ロシアの南下に対する防衛線を構築するため、北海道開発が重要な課題でありました。このため札幌に開拓使が出来るまで東京都港区芝の増上寺の境内に開拓使仮庁舎を置き、1869(明治 2)年に開拓使の仕事が始まりました。1870(明治 3)年、政府は、黒田清隆を開拓使次官に任命しました。黒田は開拓に長じる外国人の雇用と開拓用の農器具などの購入のため、1871(明治 4)年にアメリカに渡り、ホーレス・ケプロンを開拓使最高顧問として招聘するとともに、開拓に必要な家畜、飼料種子、機械を購入しました。ケプロンには外国人の起用、人選、職務など多くの権限が与えられていました。そのケプロン自身の開発構想に基づき、それに必要な技術者が学識経験者として起用されました。北海道の開発政策を推進する有能な日本青年の人材育成が必要であるとして札幌農学校が設立され、マサチューセッツ州立大学学長クラーク博士に副校長として着任することなどを依頼しています。ケプロンの斡旋および推挙によって官費で雇い入れたアメリカ人は、技術および学識経験者など 48 名でした。特にエドウィン・ダンは酪農乳業に貢献したお雇い外国人でした。1873(明治 6)年に、開拓使が購入した乳牛と共にエドウィン・ダンは来日しました。東京第 3 官園(現在の東京都渋谷区広尾 4 丁目の日赤医療センター付近)では家畜の取扱法、農具の使用法、乳製品の製造法を、七重官園では馬の去勢法などを教えました。そして真駒内牧牛場を建設して、ここに 100 余頭の乳牛を飼養しました。さらに 100ha の飼料畑で牧草を栽培し、オーチャードが適種であると認められました。またバター・チーズ・煉乳の製造法の指導も行いました。さらに馬で御す洋式農具の使い方も指導しました。1883(明治 16)年にエドウィン・ダンは北海道の農業・畜産指導の功績で勲五等双朝光旭日章を受章しました。これらの功績について、エドウィン・ダン記念館には多くの資料が現在も保存されています。

尾張士族が興した八雲の酪農郷
より浅山八郎兵衛門が移住者とともに開拓の鍬をおろしたのが始まりです。次いで 1878(明治 11)年、旧尾張藩主・徳川慶勝が禄を離れた家臣たちの授産対策を目的に 150 万坪の土地の払い下げを受けました。そして、この地に理想郷の建設を目指して旧藩士たちを移住させ、本格的に開拓が始まりました。1878(明治 11)年から 1888(明治 21)年までに 114 戸 4,000人が移住して、開拓が進められました。その中には旧尾張藩の侍たちが造った「養牛舎」で搾取技術を身に付けた士族も参画をしました。徳川家の移民に対する援助は強力なものでありましたが、これは尾張藩の「めんつ」をかけたものであったといわれています。初代の徳川農場長になった大島鍛は札幌農学校を卒業し、科学的農業とキリスト教的論理を身に付けた指導者であったといわれています。徳川家開墾地の事業は 1907(明治 40)年に一段落し、無償で土地をもらった 75 戸の士族が定着しました。1885(明治 18)年に渡英した徳川義礼に随行した吉田知行は、牧草をまき、乳牛の飼育を学んだり、奨励したりして、八雲の酪農の指導を行いました。このように町民は愛知県出身者の子孫が多く、今でも徳川尾張藩士の末裔として誇りと自尊心を持って酪農に従事しているといわれています。

トラピスト修道院と酪農の発展
トラピスト修道院(北斗市三ッ石)は、1896(明治 29)年に、フランスのノルマンデーの修道院より男女の修道士が来日し、誕生しました。構内の荒地の敷地を開墾し乳牛を飼い、乳製品の製造を行う自給自足の生活でした。その頃は日清戦争の最中であったので軍事探偵とか、流浪罰人などといわれ、土地の人々にはなかなか理解が得られませんでした。しかし、荒地と原野を開拓しながら農民に酪農を奨励すると、多くの人々が心を開きました。このトラピスト修道院の指導者であったジョアン・パプチスクはオランダ生まれで、牧場管理人を経てローマで修道士になり北海道にきました。1897(明治 30)年に道産雑種牛 12 頭から酪農事業を始めました。1900(明治 33)年に付近の農家から生乳を集め、バターの製造販売をしました。1902(明治 35)年に弟タルシスが、1908(明治41)年に兄ジョアンがオランダに出向き、ホルスタイン種の牡牛 2 頭および牝牛 8 頭計 10 頭購入してきました。トラピスト修道院による乳牛の輸入は大変話題になりました。これらを基礎牛にして乳牛改良に努め、附近の農家に無料で貸し付け、仔牛が生まれたら仔を返す「仔分法」でしたので農家に大変喜ばれました。さらに乳牛飼養が盛んになると 1907(明治 40)年、各区域にトラピスト付属渡振牛酪協会が設立されました。しかし生乳の運搬に不便であったため、集乳所で手回しクリーム分離機を用いてクリームのみ本院製造工場に送り、バターを製造しました。その頃、バターの評判もよく東京・神戸・長崎で販売されました。このようにして北海道の酪農発展の推進力になったのでした。その他、明治期の幕開けとともに、開拓使のもとで近代酪農を導入し、多くの酪農家と関係者が努力を重ねました。特に町村金弥(1859 〜 1944)、宇都宮仙太郎(1866 〜 1940)、黒澤酉蔵(1885 〜1982)の業績は高く評価され酪農王国を支えた酪農御三家といわれています。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-8-13 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

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