嶺岡牧と白牛酪考
千葉県は、関東地方の南東側で房総半島と関東平野の南部にまたがり平野と丘陵が大半を占め、海抜 500m以上の山地がないのが特徴となっています。標高が低いため全体的には温暖な気候で太平洋側気候に属しています。しかし一年中温暖な海洋性気候である南房総に対して下總台地など内陸部は内陸性気候で冬は寒く、山地が無いにも関わらず意外にも多様性にとんでいます。律令制以来の「房総三国」である上総の国、安房の国、下総の国の一部から成り立っています。産業では醤油の発展の歴史や生産量が群を抜いており、温暖な気候であることや大消費地が近いことから、農業が盛んであります。加えて三方が海に面していることから水産業も盛んになっています。第 8 代将軍徳川吉宗が嶺岡牧に白牛 3 頭を放ち、この牛から搾乳して造った「白牛酪」によって、わが国の乳文化が 5 世紀ぶりに甦るとともに新しい乳文化が始まりました。ここで始まった白牛酪の製造や白牛の飼育技術などが、その後の日本酪農につながっていることから、嶺岡牧は日本酪農の発祥地として、千葉県文化財保護条例によって 1963(昭和 38)年に史跡として指定されました。嶺岡牧に放された白牛は除々に繁殖し、御小納戸頭・岩本正倫が白牛調査のため嶺岡牧についた 1792(寛政 4)年には白牛が 70 頭まで増殖していたので、幕府侍医桃井源寅に「白牛酪考」を箸述させました。この書物は表紙を含め 19 枚の小書に過ぎませんが、白牛のその後の運命や白牛の乳利用と効能について記述されているのでわが国最初の乳製品専門書として大変貴重なものといえます。また、序文のなかで岩嶺岡牧と白牛酪考 本正倫は白牛の乳から乾酪を造り、第 11 代将軍徳川家斉に献上したところ大変喜ばれ、さらに継続して造り、庶民にも施すよう命ぜられたことが記載されています。1793(寛政 5)年に野馬掛になった岩本正倫は江戸の野馬方役所に牛舎と牛酪製造所を設け、嶺岡牧より搾乳できる白牛母子を野馬方役所に送り、そこで白牛酪を製造しました(1867(慶応 3)年迄製造が続いたようです)。この白牛酪がどういったものであるのかについて、「白牛酪考」のなかでは「乾酪」であることや、「…白牛酪一魂を贈られる…一日三度用い…」と記されているように、分割できるような形をしていたこと以外は不明であります。しかし、3 代先の嶺岡牧の牧士触頭格であった永井要一郎が残した談話では「…白い牛の乳を鍋に入れて砂糖を混ぜ、火にかけて丹念にかき混ぜながら石鹸位の固さになるまで煮詰めてもので、亀甲型にしてあった。そして非常に貴重なもので、病人などはそれを削ってお茶で飲んだりしたといわれている。…私もごく幼少の頃、祖父につれられていって、それを舐めたこともあったが、今考えてみても非常にうまかった。この白牛酪を作るのは青銅の鍋に限っていた…」となっており、また江戸から嶺岡にあてた手紙になかで「柔らかい中に箱につめると、特に黴がひどくなるから充分固くして送ってほしい」との意味が述べられていますので、多少その実態が想像できそうです。
by Rimu
引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史