酪農乳業発展史(北海道)

■お雇い外国人から学んだ酪農乳業

函(箱)館の開港と牛乳
1855(安政 2)年、函館は、燃料、水、食料などの補給のために開港しました。アメリカ貿易事務官エリシャ・E・ライスは、大統領の親書を持って捕鯨船に乗り、1857(安政 4)年 4 月にやってきました。箱館奉行村垣淡路守の公務日誌や日本古文書館 16巻によると、ライスの功績は数々の欧米文化を伝えたことだといわれています。ライスは西洋種子類の植え付け、緬羊の飼育法、パン・煙草の製造法など新知識を紹介しました。何よりも特記することは牛乳の搾り方を教えたことでした。彼は牛乳を飲むため、箱館奉行に願い出て領事館構内(現在の函館市立弥生小学校周辺)で牝牛 2 頭を飼育しました。そして牛乳飲用について多くの人々に奨励しました。これが北海道の乳文化の始まりであると記録を残しています。

お雇い外国人の功績
明治新政府にとって、ロシアの南下に対する防衛線を構築するため、北海道開発が重要な課題でありました。このため札幌に開拓使が出来るまで東京都港区芝の増上寺の境内に開拓使仮庁舎を置き、1869(明治 2)年に開拓使の仕事が始まりました。1870(明治 3)年、政府は、黒田清隆を開拓使次官に任命しました。黒田は開拓に長じる外国人の雇用と開拓用の農器具などの購入のため、1871(明治 4)年にアメリカに渡り、ホーレス・ケプロンを開拓使最高顧問として招聘するとともに、開拓に必要な家畜、飼料種子、機械を購入しました。ケプロンには外国人の起用、人選、職務など多くの権限が与えられていました。そのケプロン自身の開発構想に基づき、それに必要な技術者が学識経験者として起用されました。北海道の開発政策を推進する有能な日本青年の人材育成が必要であるとして札幌農学校が設立され、マサチューセッツ州立大学学長クラーク博士に副校長として着任することなどを依頼しています。ケプロンの斡旋および推挙によって官費で雇い入れたアメリカ人は、技術および学識経験者など 48 名でした。特にエドウィン・ダンは酪農乳業に貢献したお雇い外国人でした。1873(明治 6)年に、開拓使が購入した乳牛と共にエドウィン・ダンは来日しました。東京第 3 官園(現在の東京都渋谷区広尾 4 丁目の日赤医療センター付近)では家畜の取扱法、農具の使用法、乳製品の製造法を、七重官園では馬の去勢法などを教えました。そして真駒内牧牛場を建設して、ここに 100 余頭の乳牛を飼養しました。さらに 100ha の飼料畑で牧草を栽培し、オーチャードが適種であると認められました。またバター・チーズ・煉乳の製造法の指導も行いました。さらに馬で御す洋式農具の使い方も指導しました。1883(明治 16)年にエドウィン・ダンは北海道の農業・畜産指導の功績で勲五等双朝光旭日章を受章しました。これらの功績について、エドウィン・ダン記念館には多くの資料が現在も保存されています。

尾張士族が興した八雲の酪農郷
より浅山八郎兵衛門が移住者とともに開拓の鍬をおろしたのが始まりです。次いで 1878(明治 11)年、旧尾張藩主・徳川慶勝が禄を離れた家臣たちの授産対策を目的に 150 万坪の土地の払い下げを受けました。そして、この地に理想郷の建設を目指して旧藩士たちを移住させ、本格的に開拓が始まりました。1878(明治 11)年から 1888(明治 21)年までに 114 戸 4,000人が移住して、開拓が進められました。その中には旧尾張藩の侍たちが造った「養牛舎」で搾取技術を身に付けた士族も参画をしました。徳川家の移民に対する援助は強力なものでありましたが、これは尾張藩の「めんつ」をかけたものであったといわれています。初代の徳川農場長になった大島鍛は札幌農学校を卒業し、科学的農業とキリスト教的論理を身に付けた指導者であったといわれています。徳川家開墾地の事業は 1907(明治 40)年に一段落し、無償で土地をもらった 75 戸の士族が定着しました。1885(明治 18)年に渡英した徳川義礼に随行した吉田知行は、牧草をまき、乳牛の飼育を学んだり、奨励したりして、八雲の酪農の指導を行いました。このように町民は愛知県出身者の子孫が多く、今でも徳川尾張藩士の末裔として誇りと自尊心を持って酪農に従事しているといわれています。

トラピスト修道院と酪農の発展
トラピスト修道院(北斗市三ッ石)は、1896(明治 29)年に、フランスのノルマンデーの修道院より男女の修道士が来日し、誕生しました。構内の荒地の敷地を開墾し乳牛を飼い、乳製品の製造を行う自給自足の生活でした。その頃は日清戦争の最中であったので軍事探偵とか、流浪罰人などといわれ、土地の人々にはなかなか理解が得られませんでした。しかし、荒地と原野を開拓しながら農民に酪農を奨励すると、多くの人々が心を開きました。このトラピスト修道院の指導者であったジョアン・パプチスクはオランダ生まれで、牧場管理人を経てローマで修道士になり北海道にきました。1897(明治 30)年に道産雑種牛 12 頭から酪農事業を始めました。1900(明治 33)年に付近の農家から生乳を集め、バターの製造販売をしました。1902(明治 35)年に弟タルシスが、1908(明治41)年に兄ジョアンがオランダに出向き、ホルスタイン種の牡牛 2 頭および牝牛 8 頭計 10 頭購入してきました。トラピスト修道院による乳牛の輸入は大変話題になりました。これらを基礎牛にして乳牛改良に努め、附近の農家に無料で貸し付け、仔牛が生まれたら仔を返す「仔分法」でしたので農家に大変喜ばれました。さらに乳牛飼養が盛んになると 1907(明治 40)年、各区域にトラピスト付属渡振牛酪協会が設立されました。しかし生乳の運搬に不便であったため、集乳所で手回しクリーム分離機を用いてクリームのみ本院製造工場に送り、バターを製造しました。その頃、バターの評判もよく東京・神戸・長崎で販売されました。このようにして北海道の酪農発展の推進力になったのでした。その他、明治期の幕開けとともに、開拓使のもとで近代酪農を導入し、多くの酪農家と関係者が努力を重ねました。特に町村金弥(1859 〜 1944)、宇都宮仙太郎(1866 〜 1940)、黒澤酉蔵(1885 〜1982)の業績は高く評価され酪農王国を支えた酪農御三家といわれています。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史