『日本書紀』を調べてみると、我が国では、大和時代(五世紀頃)に、車が使用されていた。牛に曳かせていたのであるが、乗用車というより荷車的な性格を持っていた。なぜ、馬でなく牛だったかというと、奈良時代から上流貴族は、牛乳を飲んだり酪というチーズのような乳製品を食べる習慣があり、牧場で沢山の牛を飼っていたので、手に入れるのが容易であったからである。雌は酪農用に、力のある雄はもっつぱら車を曳くのに用いられていた。また、道路状況からみても遅い牛のほうが適当であったと考えられる。
雨の多い日本の道はぬかるみがちで、雨があがっても、車の通った後の轍(わだち)が残り、凹凸(おうとつ)のあるでこぼこの道であった。『今昔物語』には、車に乗り慣れない武士が、牛車の揺れのひどさに困惑している場面も出てくるほどである。
ところで、絵巻物などに出てくる牛車を使うようになったのは、平安時代になってからのこと。屋内での生活が主になり、奈良時代の人々に比べて体も弱くなり、衣冠束帯(いかんそくたい)や十二単のように服装も活動的でなかったので外出には車が必要になってきたのである。
牛車は平安貴族の乗用車として使用され、位階・家格によって相違していた。 現代の自動車メーカーが大きさや仕様の違った車を製造し、人々も速くて自分の好きなタイプの車を欲しがるのと同様、牛車の構造や色、模様も様々であった。
当時の人々も車輪や車軸を丈夫にするより車体を綺麗にしたのである。一般的にはあるように竹や檜で編んだ網代を使った網代車が「牛車」として知られている。
牛車は、南北朝頃から次第に衰退していくが、背景には、貴族社会から武士社会への大きな変化があった。位階がなければ使用できない規則のために、征夷代将軍を始め、朝廷から位階を授かった上流階級の武士を除いては一般に牛車に乗る資格がなく、馬にのるようになったのである。こうして除々に牛車の使用が減っていったのである。
一方の貴族も儀式の時に使うだけとなり、江戸時代になると、ほとんど姿を消してしまうのである。
ちなみに日本での馬車の出現は、明治時代になってからである。
byRIMU
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