北北海道を牛柄トラックで駆ける牛削蹄所。菅原道北削蹄所のオフィシャルサイトです。

日本の黒毛和種の歴史は一頭の但馬牛から始まった


全国の黒毛和種は、一頭の「但馬牛」から始まっているということをご存知でしたか?
平成24年「全国和牛登録協会」の調査で、日本の黒毛和種の99.9%が香美町小代(おじろ)区で産まれた「田尻号(たじりごう)」という一頭の牛から受け継がれていったものであると証明されました。
そもそも、但馬牛(たじまぎゅう)って知ってますか?
但馬牛と聞くと、「松坂牛、神戸牛、近江牛、佐賀牛、飛騨牛とかの素牛だよね?」とか「詳しく知らないけど、日本の和牛の原点だよね?」と答えられる方が多いと思います。
これらの回答も正解なのですが、「但馬牛をもっと詳しく知ってもらいたい!」と思い筆を走らせてみることにします。

但馬牛とは
但馬牛は、兵庫県産の黒毛和種のことで、兵庫県が指定する雄牛(県内に12頭)のみを歴代に亘り交配し誕生した牛で、県内で肥育された食用牛が「但馬牛」と呼ばれるものとなります。
その中から、一定以上の条件をクリア(霜降り度合いや歩留まりなど)した但馬牛のことを「神戸牛」とか「神戸ビーフ」と呼んでいます。つまり、神戸牛は但馬牛の中の一つのブランド(最高級)ということになります。
神戸牛となるには、霜降りという脂分の数値等が基準となっているので、赤身肉の美味しさにも着目されてきた昨今、神戸牛が但馬牛の中の最高牛肉という単純なものではなくなっているのも事実ですが、神戸牛のおかげもあって但馬牛の知名度も上がっています。

和牛の歴史、そして品種改良
ここからは、和牛の歴史を紐解きながら説明していきます。
江戸時代までの日本では、牛は食用としてではなく、農耕用として飼育されていました。それはここ香美町でも同じで、一軒に数頭の牛を飼い、一つの労働力として家族同様に育てられ、共に暮らしてきました。
時が経ち、明治初期、日本は文明開化とともに牛肉を食べる食文化が広まりました。それと同時に小柄な日本の牛を外国の牛のように体格の良い牛にしようと、品種改良(外国種の雄との交配)が盛んに行われていったのです。
ところが、これが大失敗。気性が荒く、働かず、病気も多い、そしてなにより肉質がよくないという残念な結果となってしまい、但馬牛も含む和牛の純粋種が絶滅の危機に直面してしまいました。

田尻号が「和牛の偉大なる父」と言われる所以
終戦後、元の和牛を取り戻そうと全国で本格的な取組みが始まりました。が、時すでに遅し。国内には純血の黒毛和種が残っていなかったのです。
和牛復活を諦めかけていた時、奇跡的に香美町小代区の山深い里(熱田地区)に外国種や他の血統との交配を逃れた純血の但馬牛が4頭残っていることが分かったのです。そこは、標高が700mもある高地で、他の村とも遠く離れていたこともあり、雑種化を逃れることが出来たのです。これが、一度は消えてしまったかに思われた黒毛和種を復活させる大きな要因となりました。まさに「小代の地理的要因が生んだ奇跡」と言えるでしょう。
そして、残った4頭の内の1頭の子孫として生まれたのが「和牛の偉大なる父」と言われる「田尻号(雄牛)」です。田尻号は、肉質のよい強い遺伝子をもった種牛で、当時はまだ凍結精液などなかった自然交配の時代、なんと生涯で約1500頭もの子孫を残しました。この田尻号のDNAが、今の黒毛和種の99.9%のルーツとなっているのです。
「奇跡の4頭」と呼ばれるこの牛たち。そして「田尻号」。この牛たちがいなかったら、現在世界中に広がる「和牛」は存在していなかったでしょう。

引用文献、写真引用: World One

2021-1-28 Category 牛コラム | コメントは受け付けていません。

牛乳をよく飲む人には……

牛乳の機能性

最近の研究で分かった!

牛乳をよく飲む人にはサルコペニア認知症が少ない

牛乳を毎日コップ1杯以上飲む人は、まったく飲まない人に比べ、総エネルギー、カルシウム、体重1キロあたりのたんぱく質摂取量が多く、筋肉や骨に必要な栄養素が充足できている傾向が認められました。

筋肉が減弱し、転倒や介護の原因となるサルコペニアの保有率も、牛乳をあまり飲まない人を【1】とした場合、よく飲む人は【0.42】まで低下した。

別の疫学研究では、牛乳・乳製品の摂取量が多い人は、アルツハイマー型認知症・血管性認知症の発症率が最大3~4割低下することも報告されています。

これらの根拠に基づき、健康長寿を目ざす食習慣においても、毎日コップ1杯~2杯の牛乳摂取が進められています。

引用文献:ミルクランド北海道

2021-1-17 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

牛乳の製造工場・『乳房』

今更ですが皆様が日々飲食する牛乳は乳牛から供出されています。乳牛を牛乳製造工場に例えるならば、その最重要中心機関が『乳房』です。今回は乳房について掘り下げて紹介してゆきたいと思います。
 乳牛の乳房と乳頭が4つあり、同じ乳房であっても各々独立しております。乳房内で牛乳が造られ貯められ、乳頭から牛乳が出る仕組みです。何度も申し上げておりますが、牛乳は『乳牛の血液』です。大量の血液は心臓が噴出ポンプ役を担って、各々の乳房内部へ運ばれて、血中内から牛乳の原料となるカルシウム・脂肪等が抽出され牛乳へと造られます。その働きを行う根幹が『乳腺細胞』という箇所です。乳腺細胞に、心臓からの血液(アミノ酸・ブトウ糖など)・全身から体脂肪(脂肪酸)・第一胃からはVFA(揮発性脂肪酸)が集積されて、牛乳に変換されるという仕組みになっております。先に乳牛を牛乳製造工場、乳房を最重要中心機関として例えましたが、乳腺細胞は牛乳製造工場を動かす『根幹モーター』と言えるでしょう。

 乳牛の乳房が大きいのは誰の眼から見ても明らかですが、決して大きい乳房=沢山牛乳が出るという訳ではありません。乳房が大きいにも関わらず、いざ搾乳をしてみると、予想を下回る少乳量である乳牛が多々おります。この原因の1つに、牛乳製造工場(乳牛)の根幹モータである乳腺細胞の未発達等の問題があります。母牛の遺伝影響もありますが、特に初産等の出産経験が少ない乳牛によく見られます。他の問題では、乳房が異様に大きいのが仇となり、乳房と乳頭の形がバランスが悪くなり、ミルカーでの搾乳が上手く行えず、結果乳房炎になってしまうケースもあります。またこれは多くの出産している高齢乳牛にある問題ですが、乳房と後肢を繋いでいる筋肉が退化し乳房が下へ垂れ下がってしまう事によって、ミルカー搾乳が上手く行かず、乳房炎になり易くなる事もあります。

引用文献:酪農と歴史のお話し

2021-1-2 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

新年の御挨拶



あけましておめでとうございます。


本年もより一層の心をこめて牛の健康促進の為、誠心誠意『牛の喜ぶ』削蹄を一牛一牛努める所存でございます。


昨年中のご愛顧に心よりお礼申し上げますとともに、本年度もより一層のご支援を賜りますよう、スタッフ一同心よりお願い申し上げ、新年の挨拶とさせていただきます。


㈱菅原道北削蹄所 菅原 洋充

2021-1-1 Category コラム, 当社 | コメントは受け付けていません。

冬の安全運転講習会

令和2年12月28日(月)事務所にて冬の安全運転講習会を行いました。

講師は当社の渡辺で車の原理や理論など実際のシュミレーターで冬道をどう運転したらいいかをスタッフ一同学びました。

その模様をフォトでお伝えします。







by Rimu

2020-12-28 Category コラム, 当社 | コメントは受け付けていません。

反芻(はんすう)と生乳が出るしくみ


牛の胃袋はおなかの部分の 4 分の 3 を占めるほどあり、4 つに分かれています。一番大きな第 1 胃は、160リットルもの容積があります。口から入ってきた草などは、まず第 1 胃に収まります。ここで数々の微生物に
よって、繊維分を分解し、微生物を増殖させながら食物を発酵させます。 反芻をくり返したのち第 2、3 胃で繊維分をさらに細かくし、第 4 胃で消化します。ここで、食物の栄養分と自分の第 1、2 胃で増えた微生物を消化し、栄養分として取り込みます。自分の体に発酵工場を持っているのが牛の胃の特徴です。

反芻(はんすう)
牛は食物を消化するため、一度第 1 胃の中に入ったエサを口に戻してゆっくりとすりつぶします。これを反芻(はんすう)といいます。1 日の反芻時間は 6~10 時間で、1 分間に 40~60 回もかみます。牛がいつでも口を動かしているのはそのためです。かんでいる間に、唾液(だえき)が分泌され、この唾液がエサを湿らせてのみ込みやすくしたり、胃の中の微生物の働きを活発にして消化を助ける働きをするのです。唾液は 1 日に 90~150 リットルも分泌されます。

乳房
乳房は生乳を作る大事な器官です。実際に生乳を作っているのは、乳房の中の乳腺細胞です。ここでは血液から運ばれてきた様々な栄養素を取りこんで、生乳の成分に作り変えます。1 リットルの生乳を作るために、400~600 リットルもの血液の循環が必要なのです。1 日 45kg の生乳を出す高乳量牛では、乳房の中を通る血液の量は 22.5 トンにもなります。

引用文献:中央酪農会議

2020-12-24 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

令和2年度 片山削蹄所 秋の大収穫祭!!

令和2年度9月25日(金)北見市 片山削蹄所事務所にて今年も秋の大収穫祭が行われました。
その模様をフォトでお伝えします。








みなさんお疲れ様でした。

2020-9-30 Category コラム, 当社 | コメントは受け付けていません。

千葉県は日本の 酪農の発祥地

嶺岡牧と白牛酪考

千葉県は、関東地方の南東側で房総半島と関東平野の南部にまたがり平野と丘陵が大半を占め、海抜 500m以上の山地がないのが特徴となっています。標高が低いため全体的には温暖な気候で太平洋側気候に属しています。しかし一年中温暖な海洋性気候である南房総に対して下總台地など内陸部は内陸性気候で冬は寒く、山地が無いにも関わらず意外にも多様性にとんでいます。律令制以来の「房総三国」である上総の国、安房の国、下総の国の一部から成り立っています。産業では醤油の発展の歴史や生産量が群を抜いており、温暖な気候であることや大消費地が近いことから、農業が盛んであります。加えて三方が海に面していることから水産業も盛んになっています。第 8 代将軍徳川吉宗が嶺岡牧に白牛 3 頭を放ち、この牛から搾乳して造った「白牛酪」によって、わが国の乳文化が 5 世紀ぶりに甦るとともに新しい乳文化が始まりました。ここで始まった白牛酪の製造や白牛の飼育技術などが、その後の日本酪農につながっていることから、嶺岡牧は日本酪農の発祥地として、千葉県文化財保護条例によって 1963(昭和 38)年に史跡として指定されました。嶺岡牧に放された白牛は除々に繁殖し、御小納戸頭・岩本正倫が白牛調査のため嶺岡牧についた 1792(寛政 4)年には白牛が 70 頭まで増殖していたので、幕府侍医桃井源寅に「白牛酪考」を箸述させました。この書物は表紙を含め 19 枚の小書に過ぎませんが、白牛のその後の運命や白牛の乳利用と効能について記述されているのでわが国最初の乳製品専門書として大変貴重なものといえます。また、序文のなかで岩嶺岡牧と白牛酪考 本正倫は白牛の乳から乾酪を造り、第 11 代将軍徳川家斉に献上したところ大変喜ばれ、さらに継続して造り、庶民にも施すよう命ぜられたことが記載されています。1793(寛政 5)年に野馬掛になった岩本正倫は江戸の野馬方役所に牛舎と牛酪製造所を設け、嶺岡牧より搾乳できる白牛母子を野馬方役所に送り、そこで白牛酪を製造しました(1867(慶応 3)年迄製造が続いたようです)。この白牛酪がどういったものであるのかについて、「白牛酪考」のなかでは「乾酪」であることや、「…白牛酪一魂を贈られる…一日三度用い…」と記されているように、分割できるような形をしていたこと以外は不明であります。しかし、3 代先の嶺岡牧の牧士触頭格であった永井要一郎が残した談話では「…白い牛の乳を鍋に入れて砂糖を混ぜ、火にかけて丹念にかき混ぜながら石鹸位の固さになるまで煮詰めてもので、亀甲型にしてあった。そして非常に貴重なもので、病人などはそれを削ってお茶で飲んだりしたといわれている。…私もごく幼少の頃、祖父につれられていって、それを舐めたこともあったが、今考えてみても非常にうまかった。この白牛酪を作るのは青銅の鍋に限っていた…」となっており、また江戸から嶺岡にあてた手紙になかで「柔らかい中に箱につめると、特に黴がひどくなるから充分固くして送ってほしい」との意味が述べられていますので、多少その実態が想像できそうです。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-9-22 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

明治期からの乳製品を 食べた山形の習慣(山形県)

興譲館と米沢牛
山形県は日本海に面しており、東側一帯は奥羽山脈、西側には朝日連峰がそびえています。このように県内の大半(85%)を山地が占め、森林と農地の割合が多いのが特徴です。日本海側気候なので豪雪地帯ですが、緯度の割には温暖です。特に、夏は熱帯夜になるほど蒸し暑く、冬は温暖で日照時間が短いという特色があります。山形県の古墳文化の到来は早く、今でも各地に現存しています。また、越後とともに出羽の国として栄えたことは既知のとおりです。近代においては戊辰戦争の戦後処理として、米沢、上山の各藩が減封するなど幾多の再編を経て、現在の山形県が誕生しました。山形県の畜産の歴史は古く、特に“産牛”については米沢藩第四代藩主・上杉綱憲のときの 1681(天和元)年に、牛への課税の達しがありました。置賜地方では既に南部から“上り牛”を導入しており、農耕を目的に牛の飼養が奨励されていました。

英国人教師が立役者
上杉鷹山が創設した藩校が 1871(明治 4)年に「米沢興譲館洋学舎」として設立されると、洋学科教師に英国人のチャールズ・ヘンリー・ダラス(1842~ 94)が招しょうへい聘されました。ダラスは教きょうべん鞭を執る傍ら、畜牛を飼養したことで有名でした。任期を終えたダラスが 1876(明治 9)年に横浜居留地に帰るとき、米沢牛を 1 頭持ち帰り、英国人仲間にごちそうしたところ「大変美味」と好評だったとのことです。これが興譲館と米沢牛英国人教師が立役者後に米沢牛が有名になった由縁です。文明開化が漂う横浜で、ダラスが米沢牛を紹介した功績をたたえて“米沢牛の恩人”という顕彰碑が米沢城址内に建立され、今でも地元の人たちは彼の遺徳をしのんでいます。

牛乳事業の始まり
一方、牛乳事業において鹿野兼次の役割を無視できません。蘭医で将軍の侍医であった松本順らが 1872(明治 5)年に旧酒井家神田柳原中屋敷に牛舎を建て、鹿野はその牛舎で搾乳法を学び、牛乳を搾り、病院用に提供していました。1876(明治 8)年には山形県の要請で旧県庁近くに牧畜場をつくり、自らその監督を務めて牛を飼養し、品種改良の研究に没頭するなど明治中期の畜産発展に貢献しました。その後の 1882(明治 15)年、息子の鹿野善作が父(兼次)の事業を継承しました。酒田で搾乳業を始めるとともに、「蕨岡牧場」と共同で純良の牡牛を放牧し、従来の和牛の改良推進を図りました。一方、1894(明治 27)年に高畠町の梅津勇太郎(1876 ~ 1940)は宮城県刈田郡七ヶ宿に「大野沢牧場」を開設し、エアシャー種牛を導入して牧場経営を行いました。さらに、1899(明治 32)年には牧場適地を選び、山林 400 町歩を借り受けて放牧を開始しました。同時に、牛を飼養するために数十種の牧草種子を購入して試作を行いました。この種子を牧場に播種したところ良好な栽培結果を得たため、牛の放牧や種付けを嘱託する人が増加し、1906(明治 39)年には 300 余頭が飼養されていたといわれています。1900(明治 33)年、高畠町の大河原友吉は岩手県からホルスタイン種牛を初めて導入しました。そして、1901(明治 34)年には奥羽線の開設により、千葉、岩手、北海道などの酪農先進地から乳牛の導入を図ったのでした。

乳牛の改良研究が本格化
1904(明治 37)年には新庄市高壇に「山形県種畜場」が創設され、主として馬産育成の拠点となっていました。1911(明治 44)年には長井市今泉に分場が設置され、ホルスタイン種およびエアシャー種の種牡牛が導入され、乳牛の改良研究が行われました。また、鶴岡町の三井四郎兵衛も牛を飼い、牛乳を販売していました。彼の息子の弥七郎は 1896 ~ 1901(明治 29 ~ 34)年まで東京農科大学および下総御料牧場、さらに東京付近の搾取家で実地研究を行い、短角種 6 頭を買い入れて家業を助けました。当時はゼルシー種、短角種など 80 余頭を飼養していました。しかし、牛にツベルクリン反応検査の注射を行ったところ、結核病にかかってしまうなど苦労の連続でした。それでも 1905(明治 38)年には搾取業を再開するとともに、機械を導入して殺菌牛乳を販売しました。

粉ミルクの製造
1912(明治 45)年に、高橋萬次郎らが「和田製乳所」を創立しました。さらに、1913(大正 2)年に梅津勇太郎らがバターおよび粉乳を製造して成功すると、1919(大正 8)年には酪農家 192 人の出資金10 万円で農民資本「日本製乳株式会社」が設立されました。こうして山形県で初めて粉乳製造が開始されたのです。製品は「おしどりコナミルク」の商標で、東京・銀座の洋酒缶詰問屋・長井越作が一手に販売しました。初めは製造技術も幼稚で、いろいろ苦心しましたが、当時の北海道大学教授の宮脇富の指導を受けるに及んで、着々と品質の向上・改善が図られました。1931(昭和 6)年には画期的な遠心式噴霧乾燥装置を導入して実用化を図ったことから、戦前には「粉ミルクといえば“おしどり”」と言われるほどでした。戦後の酪農経営は、高畠、上山、山辺、成生、柴橋地方などを中心に発達しており、ここから生産された生乳の処理工場として、当時は「北部酪農協」「山形酪農協」「大谷農協」「東北酪農協同株式会社」「明治乳業株式会社」、そして前述の「日本製乳株式会社」などがありました。その後、組織再編などが行われて今日に至っています。

八百屋が販売した煉粉乳
このように、山形県では乳牛の飼養および粉ミルクの製造には苦難の歴史がありました。一方で、明治20 年代に既に煉れん乳や粉乳を販売していたという実績もあります。それが当時の鶴岡町荒町で商売をしていた「八百屋市郎治商店」(八百屋は雅がごう号)です。同店の引ひきふだ札(チラシ)を見ると、ミルク各種(煉れん乳、粉乳など)のほかに、和洋缶詰、乾物、こんにゃくなどを取り扱っていたようです。今でいう食料品店であったと思われますが、こうした新しい商品も既に販売していたのです。このように、この地の人々は明治時代から既に乳製品を食べる食生活を送っていました。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-8-31 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

酪農乳業発展史(北海道)

■お雇い外国人から学んだ酪農乳業

函(箱)館の開港と牛乳
1855(安政 2)年、函館は、燃料、水、食料などの補給のために開港しました。アメリカ貿易事務官エリシャ・E・ライスは、大統領の親書を持って捕鯨船に乗り、1857(安政 4)年 4 月にやってきました。箱館奉行村垣淡路守の公務日誌や日本古文書館 16巻によると、ライスの功績は数々の欧米文化を伝えたことだといわれています。ライスは西洋種子類の植え付け、緬羊の飼育法、パン・煙草の製造法など新知識を紹介しました。何よりも特記することは牛乳の搾り方を教えたことでした。彼は牛乳を飲むため、箱館奉行に願い出て領事館構内(現在の函館市立弥生小学校周辺)で牝牛 2 頭を飼育しました。そして牛乳飲用について多くの人々に奨励しました。これが北海道の乳文化の始まりであると記録を残しています。

お雇い外国人の功績
明治新政府にとって、ロシアの南下に対する防衛線を構築するため、北海道開発が重要な課題でありました。このため札幌に開拓使が出来るまで東京都港区芝の増上寺の境内に開拓使仮庁舎を置き、1869(明治 2)年に開拓使の仕事が始まりました。1870(明治 3)年、政府は、黒田清隆を開拓使次官に任命しました。黒田は開拓に長じる外国人の雇用と開拓用の農器具などの購入のため、1871(明治 4)年にアメリカに渡り、ホーレス・ケプロンを開拓使最高顧問として招聘するとともに、開拓に必要な家畜、飼料種子、機械を購入しました。ケプロンには外国人の起用、人選、職務など多くの権限が与えられていました。そのケプロン自身の開発構想に基づき、それに必要な技術者が学識経験者として起用されました。北海道の開発政策を推進する有能な日本青年の人材育成が必要であるとして札幌農学校が設立され、マサチューセッツ州立大学学長クラーク博士に副校長として着任することなどを依頼しています。ケプロンの斡旋および推挙によって官費で雇い入れたアメリカ人は、技術および学識経験者など 48 名でした。特にエドウィン・ダンは酪農乳業に貢献したお雇い外国人でした。1873(明治 6)年に、開拓使が購入した乳牛と共にエドウィン・ダンは来日しました。東京第 3 官園(現在の東京都渋谷区広尾 4 丁目の日赤医療センター付近)では家畜の取扱法、農具の使用法、乳製品の製造法を、七重官園では馬の去勢法などを教えました。そして真駒内牧牛場を建設して、ここに 100 余頭の乳牛を飼養しました。さらに 100ha の飼料畑で牧草を栽培し、オーチャードが適種であると認められました。またバター・チーズ・煉乳の製造法の指導も行いました。さらに馬で御す洋式農具の使い方も指導しました。1883(明治 16)年にエドウィン・ダンは北海道の農業・畜産指導の功績で勲五等双朝光旭日章を受章しました。これらの功績について、エドウィン・ダン記念館には多くの資料が現在も保存されています。

尾張士族が興した八雲の酪農郷
より浅山八郎兵衛門が移住者とともに開拓の鍬をおろしたのが始まりです。次いで 1878(明治 11)年、旧尾張藩主・徳川慶勝が禄を離れた家臣たちの授産対策を目的に 150 万坪の土地の払い下げを受けました。そして、この地に理想郷の建設を目指して旧藩士たちを移住させ、本格的に開拓が始まりました。1878(明治 11)年から 1888(明治 21)年までに 114 戸 4,000人が移住して、開拓が進められました。その中には旧尾張藩の侍たちが造った「養牛舎」で搾取技術を身に付けた士族も参画をしました。徳川家の移民に対する援助は強力なものでありましたが、これは尾張藩の「めんつ」をかけたものであったといわれています。初代の徳川農場長になった大島鍛は札幌農学校を卒業し、科学的農業とキリスト教的論理を身に付けた指導者であったといわれています。徳川家開墾地の事業は 1907(明治 40)年に一段落し、無償で土地をもらった 75 戸の士族が定着しました。1885(明治 18)年に渡英した徳川義礼に随行した吉田知行は、牧草をまき、乳牛の飼育を学んだり、奨励したりして、八雲の酪農の指導を行いました。このように町民は愛知県出身者の子孫が多く、今でも徳川尾張藩士の末裔として誇りと自尊心を持って酪農に従事しているといわれています。

トラピスト修道院と酪農の発展
トラピスト修道院(北斗市三ッ石)は、1896(明治 29)年に、フランスのノルマンデーの修道院より男女の修道士が来日し、誕生しました。構内の荒地の敷地を開墾し乳牛を飼い、乳製品の製造を行う自給自足の生活でした。その頃は日清戦争の最中であったので軍事探偵とか、流浪罰人などといわれ、土地の人々にはなかなか理解が得られませんでした。しかし、荒地と原野を開拓しながら農民に酪農を奨励すると、多くの人々が心を開きました。このトラピスト修道院の指導者であったジョアン・パプチスクはオランダ生まれで、牧場管理人を経てローマで修道士になり北海道にきました。1897(明治 30)年に道産雑種牛 12 頭から酪農事業を始めました。1900(明治 33)年に付近の農家から生乳を集め、バターの製造販売をしました。1902(明治 35)年に弟タルシスが、1908(明治41)年に兄ジョアンがオランダに出向き、ホルスタイン種の牡牛 2 頭および牝牛 8 頭計 10 頭購入してきました。トラピスト修道院による乳牛の輸入は大変話題になりました。これらを基礎牛にして乳牛改良に努め、附近の農家に無料で貸し付け、仔牛が生まれたら仔を返す「仔分法」でしたので農家に大変喜ばれました。さらに乳牛飼養が盛んになると 1907(明治 40)年、各区域にトラピスト付属渡振牛酪協会が設立されました。しかし生乳の運搬に不便であったため、集乳所で手回しクリーム分離機を用いてクリームのみ本院製造工場に送り、バターを製造しました。その頃、バターの評判もよく東京・神戸・長崎で販売されました。このようにして北海道の酪農発展の推進力になったのでした。その他、明治期の幕開けとともに、開拓使のもとで近代酪農を導入し、多くの酪農家と関係者が努力を重ねました。特に町村金弥(1859 〜 1944)、宇都宮仙太郎(1866 〜 1940)、黒澤酉蔵(1885 〜1982)の業績は高く評価され酪農王国を支えた酪農御三家といわれています。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-8-13 Category コラム, 牛コラム | コメントは受け付けていません。

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