北北海道を牛柄トラックで駆ける牛削蹄所。菅原道北削蹄所のオフィシャルサイトです。

TikTok始めました!!

2021-7-23 | コメントは受け付けていません。

酪農現場における暑熱対策

1.現場で暑熱を評価する
乳牛の暑熱を評価する指標には、①乾湿球温度による体感温度、②風速による体感温度、③温湿度指数(THI:Temperature Humidity Index)、④風速、放射を考慮した修正THI(adTHI)があります。このうち、放射以外は比較的容易に計測できるので、現場での利用が可能です。
暑熱を計測するためには、温湿度計、風速計が必要となります。風車型の風速計と温湿度計が一体となった計測器が市販されているので、現場でぜひ1台用意していただきたいと思います。

暑熱の指標の詳細は以下の通りです。

1)乾湿球温度による体感温度

棒状温度計が2本並び、一方の感熱部にガーゼを巻き水つぼに浸して湿球(WB)とし、もう一方を乾球(DB)として、それぞれの温度から湿度を計測する乾湿計の表示値から体感温度を計算する方法です。

乾湿球温度による体感温度(℃)=0.35×DB(℃)+0.65×WB(℃)

で表されます。最近ではこの乾湿球型の温湿度計はほとんど用いられなくなり、デジタル式の温湿度計が広く利用されています。このため、気温(℃)と相対湿度(%)による体感温度の関係を求め表1に示しました。

この体感温度による暑熱の評価は、愛媛県、徳島県、農水省の各畜産試験場(研究当時)の研究結果から、①体感温度19.4℃から呼吸数が上昇し、②体感温度21.6℃から直腸温が上昇するとされています。また、③日平均体感温度が21.7℃以上になると乾物摂取量が低下し、④日平均体感温度が22.2℃以上で乳量が低下するとしています。この研究から、日平均体感温度が19℃を越えると「注意」が必要となり、25℃を超えると「危険」とされる領域になります。この温度を踏まえて乳牛の暑熱対策をします。

2)風速による体感温度
乳量の減少率を基にした送風効果を体感温度で表したものです。

牛舎内に風を起こして暑熱対策をするトンネル換気の原理を示す式です。

3)温湿度指数(THI)
人間の不快指数と同じ式で計算されます。

温湿度指数(THI)=0.8×DB(℃)+0.01×RH(%)×(DB(℃)-14.4)+46.4

で表されます。
THIによる評価は、ストレスなし:72未満、軽度のストレス:72~78、強いストレス:79~88、非常に強いストレス:89~98とされています。しかし、これは乳量が15.5kg台の牛により作成されたものであるため、Maderら(2006)は新基準として、ストレスなし:65未満、軽度のストレス:65~71、強いストレス:72~81、非常に強いストレス:82~92を提案しています。

これらのTHI評価基準と体感温度での評価を比較すると、体感温度の「注意」と旧基準の軽度のストレスがほぼ同じですが、新基準では気温が19℃とより低い段階から注意喚起がされていることがわかります。また、THIのほうが湿度が低くとも高く表示されることがわかります。

4)修正THI
温湿度指数を求めるときに風速と放射を考慮したものです。

修正THI=4.51+THI-1.992×風速(m/秒)+0.0068×放射

で表されます。放射は主に屋根面の温度により影響を受けます。酪農現場での放射計測は測定器が高価なため簡単には計測できないので、放射を0とし風速を計測して風速による効果が含まれたTHIとして検討します。評価指標はTHIの旧基準を用います。

2.現場での暑熱対策
現場で実施可能な暑熱対策としては、日射による影響を防ぐもの(日除け、屋根散水、屋根断熱など)と牛体から熱を奪う方法(送風、ミスト、散水、冷房など)があります。

1)日除け
東西方向の牛舎では、南側に牛床スペースがあると日射が牛舎内に入り暑熱環境を作り出すことになります(写真2)。また、寒冷地では冬期間日射を取り入れるため屋根に透明板を使っている例が多くあります。夏期はこの透明板から強い日射が差し込み牛舎内が暑熱となっていることが多くあります。
このため、日射を防ぐために庇ひさしを長くしたり、遮光ネットを庇から延ばして牛舎内に日射が入らないようにします。また、屋根の透明板の裏側に寒冷紗やアルミ蒸着シートなどの遮光資材を広げて日射をさえぎるとともに、換気を良好にして遮光資材で暖まった空気を排除します。
牛舎にパドックが併設されている場合には、パドックにも寒冷紗やアルミ蒸着シートなどを掛けて日除けすることで、舗装面温度の上昇を防ぎ、熱風が牛舎に入らないようにすることができます。

2)屋根散水、断熱、塗装
大型の牛舎では天井を張らないので、多くの場合屋根裏面が直接見えます。屋根面が日射で高温になると、放射熱で乳牛は暑熱を感じます。このため、屋根面を冷やすために散水したり、断熱をして屋根裏が高温になるのを防いだり、反射率の高い塗装することで屋根の温度上昇を抑えるようにします。

3)送風機
風による体感温度のところで示したように、1m/秒の風速で体感温度は6℃低下することから、乳牛に風を当てることは暑熱対策として極めて有効な手段です。牛舎周囲の風向に逆らわないようにして牛舎内に効果的に風をながします。トンネル換気も有効な手段ですが、縦断方向よりも横断方向に風をながした方が極めて効果が高くなります。特につなぎ飼い牛舎では、横断換気の方が乳牛に直接風を当てることが容易になるため効果が高くなります。

4)ミスト
送風機とセットでミストを噴霧すると気化冷却で乳牛の体温を低下させることができます。湿度が低いときには極めて高い効果がありますが、湿度が高いと気化冷却の効果が薄れるため、牛床を濡らす原因にもなるので注意が必要です。

5)牛体への散水
牛体に直接散水して冷却するとともに、送風をして牛体からの熱を奪うことができます。フリーストール牛舎の飼槽部分に散水ホースを設置して採食時に散水する「ソーカーシステム」が広く利用されています。乳牛が混み合う待機室でも、乳房まで濡れないように注意して散水します。
つなぎ飼い牛舎では、牛床まで濡れてしまう場合があるので注意が必要です。

6)冷房・除湿
気温が35℃以上の猛暑日などは、風を当てても効果が薄れるため、冷房や除湿も検討されていますが、コスト的に見合うかどうか十分な検討が必要です。
地中熱交換等の冷房では除湿されない場合が多く、空気温が下がっただけでは逆に相対湿度が高くなり、現在の体感温度やTHIから右上に移動するだけで、ほとんど効果がない場合があるので注意が必要です。

7)牛舎周囲の緑化
牛舎周囲を緑化することでも、牛舎内の温度低下が期待できます。作業動線や敷地の広さにも影響を受けますが、舗装面はできるだけ抑えて、緑地を増やすことで景観も良くなります。

3.現場での注意点
1)温湿度計を設置して現状を知る
牛舎内がどれだけの暑熱環境にあるかを正確に知るためにデジタル温湿度計を設置します。
まずは現状を知らないと対策をとることができません。安価な温湿度計が多く出回っているので、できるだけ表示が大きなものを直射日光が当たらない場所に設置し、日々点検します。
乳牛が暑熱を感ずるのは湿度70%では気温22℃くらいからなので、人間にとっては快適であっても牛舎内は暑熱環境にあることになります。乳牛からは大量の熱と水蒸気が発生しているので、気温が20℃くらいでも牛舎内は気温・湿度ともに高くなって暑熱になっている場合があります。特に、搾乳時の待機室は乳牛が密集するため暑熱になりやすいので注意が必要です。

2)インバータの作動温度をチェックする
牛舎内の気温は日中高く夜間は低くなり、湿度は夜間から明け方高く日中は低くなります。このため、インバータの強弱の作動温度が高い場合、気温が低くなっても湿度の高い夜間に、送風が必要なのに送風が弱く乳牛を十分に冷却できない場合があります。体感温度をチェックしながら、夜間であっても風量が落ちないようにしたり、散水をするなどしてしっかりと暑熱対策をする必要があります。

3)暑熱期以外の暑熱対策
人間でも身体が馴れていないときの暑さは非常にこたえるし、暑熱期が終了した秋でも残暑が続くとこれまたこたえるものです。乳牛も同じであることから、こうした期間でも細心の注意を払って乳牛の健康管理に心掛けて欲しいと思います。

引用文献:酪農ジャーナル電子版酪農PLUS

2021-6-24 | コメントは受け付けていません。

牛の漢方医学のハンドブック「牛書」とは?

牛の漢方医学書・『牛書』とは?
著作者は不明で、1744年、播州(現:兵庫県)在住の山本秀實という人物によって写し取られた牛書が、財団法人武田科学振興財団杏雨書屋によって保管されているので、やはり1720年に成立された「牛療治調法記」と同時期に牛書が発刊されたと考えられます。もとは中国本の牛医学書・「牛経大全」を手本としていましたが、伯楽たちの診療経験などを踏まえられ、実用書として形成されていったと言われています。

 牛書内に掲載されている病気の番付1~37では、各々の病気名・症状、そして治療と対処方法(漢方薬処方・鍼灸部分)が、牛のイラスト付きで事細かく記されており、特に治療針を打つ方法が記されている項では、牛とその内臓器官(肝臓は黒肝、小腸は百尋、脾臓は脾ノザウと記載)が描かれており、針を打つ部分(経穴)と針を打つ深さも解説されています。また漢方学らしく、第一に「見立て(診断・診察」を最重要視とし、鍼灸や漢方薬を牛に施す事によって牛が本来所持している強い治癒力を高め、疾患を克服するのを目的とする事も牛書から読み取れます。

 漢方薬処処方箋の詳細さにも驚きを覚えます。1番に記載されている病気は「牛の風邪(風ヒク牛之図)」ですが、その折の症状は、牛体を震わせ尻尾を足の間に挟み込み、時々しゃっくりをする、黄色い膜のようなものが口内にあり、手を当てて診てもそこに熱感が無い等々が細かく記された後、治療法として排毒剤を投与する事と、その生薬処方が記されています。それは「大人参・小人参・独活(共にウゴキ科、甘草(マメ科・カンゾウ)、前胡・紫胡(セリ科)、枳穀(キコク・ミカン科の果実を乾燥させた物)を用いる」と、漢方学に精通している人物が少ない現代人には馴染みの全くない生薬が登場してきます。また牛が風邪によって腹部が鼓張する場合や身体に冷感がある場合の生薬処方も、全て1番内に明記されています。

 以上の様に、1番・「牛の風邪」を1つ例に挙げてみても、これ程細かく症状・漢方薬処方が記されている事がお分かり頂けたと思います。江戸時代の獣医学を含める医学というのは、どうも迷信的であるイメージが付き纏いがちですが、それは間違いです。牛書を見る限り、当時の人々の医療知識の深さや技術の高さに感嘆させられます。

引用文献:酪農と歴史のお話し

2021-5-28 | Leave a Comment

日本における肉用牛の経緯

牛肉食禁止の古代日本
日本に牛が伝来した時期は、弥生時代初期(紀元前10世紀頃)と大和朝廷時代(西暦6世紀頃)という諸説が研究者の方々の間で諸説があり、伝来時期は未だ釈然としないですが、兎に角にも古代には既に、朝鮮半島を経て牛が日本に伝来したという事は確実のようです。

牛(馬も含める)を日本に持ち込んだ人々は、当時最新の文化や技術を保持していた中国・朝鮮の亡国王朝の生存者たち(渡来人)であると言うわれています。大陸の最新知識を所持していた渡来人は、その後の日本文化や思想の発展に大きく貢献したサロン人であり、日本の古代畜産技術も飛躍的に発展したと言われています。天皇家に初めて牛乳の利用法や搾乳法を伝えた孫智聡・善那親子もそのサロンの人です。

中国人や朝鮮人は古代より牛肉や乳製品を食する事には抵抗が無い人々であったので、渡来人も牛肉を食していたと思われるのですが、牛を食用として飼育していたという記録は見つかっていません。牛は農耕や運搬労力として重宝されていたので、肉を食べれた人は上流階級の極僅かである上、食べる機会も極めて少なかったと思われます。牛肉を食す代わりに、狩猟で野鳥な鹿を狩って、それらの肉を食用としていた記録や歌が残っています

日本の食肉史を語る際、仏教という思想は無視できない存在です。仏教が伝来したのは6世紀中頃ですが、朝廷は日本を仏教思想のもと、1つに統合する事を目指して仏教の布教に勤めました。聖徳太子の法隆寺建立がその中心的存在です。

更に仏教の思想を日本国内に徹底させるため676年、天武天皇は詔(ミコトノリ・天皇の命令)として、馬・牛・犬・鶏・猿といった動物を殺す事を禁止する『殺生禁断令』を出します。これが日本史上初の肉食禁止令となり、その後も12世紀頃まで各天皇により繰り返して、食肉禁止令が発布されました。

上記の肉食禁止令は、日本の畜産の在り方を大きく変えた転換点になりました。英国をはじめとする西洋・米・豪などの各国が有史以来、良質な牛肉を多く得るための畜産技術や品種の向上が図られ発展しましたが、古代の日本は殺生禁断令によって、牛肉を公に食する事を禁じられたので、良質な牛肉を得るための日本の畜産力は頭打ちになってしまいました。

平安時代になっても、牛肉が貴族(当時の為政者)の間で公に食される事はありませんでした。彼らが仏教(食肉禁止令)への帰依が強い事もありましたが、彼らの象徴的な乗り物・牛車を使っていたのも、牛肉を食べなかった理由になっています。
貴族の権力が廃れ、替りに武士が権力者となった時代になっても、やはり牛肉を大々的に食べる事はしませんでした。但し貴族の様に仏教的思想が起因ではなく、武士の根幹である農地(領地)を耕す貴重な労力や鎧を製造する際の皮材料を亡くさないための合理的思考があったからです。

動乱の戦国時代では、キリスト教など西洋文化が初めて国内に導入された時期であり、その中には牛肉を食する文化も入っていました。キリスト教宣教師が牛飯を調理し国内信者に振る舞った事や、戦などで負傷して使役として利用不可能となった牛馬を屠畜して、それらの肉を焼いて食している事(すき焼きの元祖)や、熱心なキリスト教徒であったインテリ戦国武将・高山右近(1552~1615)が同じインテリ仲間である大名達と、牛肉料理を食べた記録が残っており、一部の日本人(武家)の間に牛肉が食されていた事を示しています。しかし食肉禁止令が形骸化したとは言え、牛肉を食べる事は一般的にはやはり禁じ手であった側面もあり、豊臣秀吉は、宣教師・コエリョが牛を売買して食べた事について難癖を付けた記録も残っています。

江戸時代でも、幕府は庶民に牛肉を食する事を建前上禁止しており、特に農民が所有している農耕牛を屠殺する事を固く禁じていました。江戸市民の間でも兎や猪などを食べさせる肉屋(通称:ももじ屋)はありましたが、牛肉は提供されていなかった様です。これ程、庶民に牛肉を食べる事を禁じていた肝心の江戸幕府上層部(将軍・御三家)は、彦根藩が飼育していた近江牛(赤斑牛)の肉味噌漬けを毎年献上させて、食べていたのです。特に幕末の水戸藩主で牛乳好きであった徳川斉昭は、この近江牛味噌漬けが大好物であったと伝わっています。

広く本格的に庶民の間で牛肉を食されるようになったのは、明治時代になってからです。逆に明治政府が、積極的に牛肉や豚肉を食べる事を庶民に奨励し、1万円札で有名な福澤諭吉も牛肉奨励パンフレット『肉食之説』を執筆し、牛肉のススメを行っています。しかし、当時未だ庶民の間で、牛肉を食べる事にかなりの抵抗を示し、様々な揉め事がありましたが、特に明治天皇が牛肉を食された直後の明治5年2月に、御岳行者集団が皇居に乱入、牛肉反対デモを起こすという事件もありました。最も当時の屠殺技術が未熟であった為に血抜きが上手く出来ておらず、血生臭い牛肉料理で庶民の間で不評であったようです。

牛肉が庶民の間にも好き好んで受け入れられる様になったのは、1904年のロシア帝国と勃発した日露戦争の時に、乾燥牛肉や缶詰が考案され、軍隊の食糧となりました。これが徴兵された士卒の間で大好評、戦争終了後の復員した庶民で、牛肉は忘れられない恋しい味となって、牛肉の普及に拍車をかける一事になりました。
大正にはハム製造が開始され、関東大震災後はコンビーフンが大量に輸入され普及し、その後も洋食産業が日本国内に拡散し、大正末期~昭和初期になると、日本人の牛肉に対する嫌悪感や忌避感は殆ど無くなり、寧ろ庶民の間では普段食べる事が出来ない超高級料理となりました。

牛肉と日本人の歴史も長く深いのです。

引用文献:酪農と歴史のお話し

2021-5-14 | Leave a Comment

牛関連の慣用句・ことわざ

人類が地上に誕生し、彼らが狩猟生活を経て、牛や馬・羊などの動物を家畜化に成功して以来、牛や馬は人類と共に生きてきました。更に時代が下り、人々は一つの土地に定住する事を覚え、互いに集って村や街を造り、更には社会・国・文化、そして文明を創り上げてきました。この様に、どんなに人類の文明が発達しても牛や馬などの家畜動物は、いつでも食料・衣料・労力といった物量面でも、我々人間が生きてゆくために大きな力となってくれていますが、それだけではなく、我々が生きる上で、時には素敵な指針、あるいは心の支えとなる慣用句や諺(ことわざ)といった『精神の拠り所』面でも、牛と馬は何らかの形で登場し、我々の大きな力になってくれています。この心の拠り所もまた人が生きてゆく上では、とても大切な物であり、古今東西、家畜動物は物心両面で我々を支えてくれているのであります。

今記事では、我々に『心の拠り所』の1つとして、古代より様々な力を与えてくれている『慣用句・諺』、しかも『牛・馬から誕生した慣用句・諺』の一部を紹介させて頂きたいと思います。ある種の雑学や語源録の様な記事になる公算も大きいので、ご興味のある方は是非、お読み下さいませ。先ずは「牛から生まれた慣用句・諺」から紹介させて頂きます。

①牛に引かれて善光寺参り(慣用句)
自分の意思や考えからではなく他人の誘いで、思いがけない良い結果になったり、良き方面に導かれたりする意味。

日本では、牛に纏わるこの慣用句は一番知られているのではないでしょうか。解説させて頂くと、この慣用句の出典は不明ですが、江戸時代中期の国内旅行ブーム期の人気スポットの1つであった善光寺参りが有名になっていた折に、広まった慣用句だと言われています。
 
信濃国(現・長野県)にある善光寺近くの小県(真田氏の本拠地で有名)という土地に住みながら、全く信仰心が無い老婆が、ある日家の外に干していた布を、どこからか現れた牛1頭(実は観音菩薩様の化身、現在の布引観音)が、その角に布を引掛けて走り去ってしまいました。これを見て怒った老婆は、牛を必死に追っかけて行きますが、牛の逃げ足がとても速く、捕まえる事はできません。そうする内に、遂には善光寺の金堂前まで来てしまい、その直後、仏様の教えを受け、これを契機に老婆は深い菩提の心(信仰心)を持つようになったというのが、この慣用句の意味になっています。因みに、牛が持ち逃げした布は、老婆の近くの家の観音堂で後日見つかったそうです。これが現在、長野県小諸市にある布引観音になります。

生きていると親しい友人や目上の方々から、自分の興味の無いスポーツや美術鑑賞など文化行事の付き合いに誘われる事が多くあると思いますが、それでも自ら進んで、誘いを受け行ってみては如何でしょうか。それで新たな趣味や考え方に出会えるかもしれません。それは取りも直さず、自分の器の幅が少し大きくなった。という事を示している結果ですから。

②牛も千里、馬も千里(諺)
早くても遅くても、また上手でも下手でも、行き着く結果は同じだから慌てるな。という意味になります。

類以の四字熟語では『大器晩成』に当たりますかね。とにかくにも、筆者の平凡人には何とも励みになる諺であります!

③ 角を矯(た)めて牛を殺す(諺)
小さな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにしてしまう意味になります。

牛の曲がっている角をまっすぐに直そうとして、却って牛を死なせてしまい、肝心な根本を駄目にしてしまう事から上記の意味になっています。欠点は少ない事に越した事はないかもしれませんが、考えてみればその欠点が自分の長所になる場合があるかもしれません。だからと言って欠点を過度に尊重したり、増長するのは、やはり良くありません。自分の欠点を程良く愛でる事が出来る余裕の心を持ちたいものであります。また他人の小さな欠点に対しても一々目くじらを立てて論わず、笑って見過ごしてあげたり、優しく諭せる様な広い心を持ってゆきたいものであります。

④牛耳る(慣用句)
団体や組織を支配し、思いのままに動かす意味になります。
 
この慣用句も皆様、よくニュースなどでお聞きになられたり、小説などで読んだ事があると思います。本来は「牛耳を執る」と言われていたのが、短縮され『牛耳る』となりました。出典は、中国の歴史書「春秋左氏伝」内の魯国王の哀公17年の故事に因んでいます。即ちその故事とは中国春秋戦国時代に、諸侯が同盟を結ぶ際に、盟主が牛の耳を裂いて、皆がその血をすすり合って、組織に忠誠を誓い合いましたが、その儀式を執り行う盟主を『牛耳を執る』というようになり、それが転じて、組織を思いのままに動かす意味に転じました。(参照:語源由来辞典)
因みに何故牛の耳なのかと言うと、古代中国では、牛は神事や儀式に奉げる大事な生贄であったので、同盟の儀式でも牛が利用されていたと考えられます。

⑤鶏口となるも牛後となるなかれ(諺)
大きな組織の末端で働くよりは、小さな組織の長として働いた方が良い。という意味でつかわれます。類義の諺で「鯛の尾よりも鰯の頭」があります。

これは牛が悪い例に使われている諺ですが、この諺内では牛も立派なキャストですので、紹介させて頂きました。出典は、中国史上最高の歴史書・史記の蘇秦伝からになります。蘇秦という人物は現代風に例えるならば、名外交官であり、後に六国の宰相になった傑物ですが、その蘇秦がある国王に外交方針を助言した際に、「鶏口となるも・・・」という諺を使っています

確かに大企業に働いているのも本当に良い事であるとも思いますが、その分、入社や勤務(競争)や(社員が多いが故に)人間関係も大変だと思います。零細企業で働く方で、将来が不安を抱いている方は、この諺を思い浮かべて日々のお勤めをされては如何でしょうか。将来、何か展望が開けてくるかもしれません。

以上、今回は牛から誕生した慣用句・諺の一部を紹介させて頂きました。この拙稿をお読みになり、古くから伝っている人類の宝庫の1つ「慣用句や故事成語(諺)」に少しでもご興味をお持ち頂ければ嬉しく思います。

引用文献:酪農と歴史のお話し

2021-5-3 | コメントは受け付けていません。

牛にも鍼灸治療がある!

鍼灸治療とは?

「漢方医学」と聞いて、(漢方医学の素人の)筆者が真っ先に思い浮かべるのが、「漢方薬」ですが、その次を挙げるのなら、今記事の表題である「鍼灸(しんきゅう)治療」でしょうか。鍼灸治療は、古代中国(紀元前春秋期)には既に誕生しており、以来、中国や日本を含めるアジア諸国内では、生薬を用いる「生薬医療」と双璧を成す、漢方医学となってきました。

 この読み方が難しい療法を見る度に、筆者は、池波正太郎氏の代表作の1つである「仕掛人・藤枝梅安」を思い浮かべてしまうのですが、本作の主人公である梅安は、裏社会では凄腕の仕掛人(暗殺者)として暗躍していますが、彼の本業(表社会の顔)は、優れた鍼灸(漢方)医であり、病気で苦しむ人々を鍼治療で救っている描写がよく出てきます。



 特殊の鍼を使って、人体に多数存在する経穴(ツボ)に刺し、刺激する事によって体調を整え、またある時は、経穴上にある皮膚に灸を据える事によって、体内の血行を良くなり、人間が本来持っている治癒力を高めるのが「鍼灸治療」の本質です。

 先述の如く、紀元前の古代中国で誕生したこの治療法は、日本でも室町期から発展し始め、現在でも様々な紆余曲折を経て、「鍼灸業」として小規模ながら生き続けており、治療の一助になっています。そして、この治療法は、牛の飼育世界でも無縁では無く、昔より生薬治療と並んで、牛馬の治療に役立ってきており、現在の乳牛治療の一環として、鍼灸治療(特に灸)を取り入れている獣医師もいます。(筆者の旧職場担当の獣医さんが灸治療の推薦者でした)

 これよりは、牛の古典書「牛書」に載っている、牛に対しての鍼灸治療を探ってゆきたいと思います。

牛の鍼灸治療

現在でも犬などのペット動物を中心とする獣医業界でも鍼灸治療(動物鍼灸学)を採用している話題を、時折見聞きしますが、古文書『牛書』に掲載されている牛の病気や怪我に対する治療法にも、生薬を投与する漢方薬療法が主だっていますが、中には鍼と灸を利用した物理的療法も紹介されています。

 第2番『熱越(高熱)』の冒頭には、『悪い血が内臓に入ると牛は死亡するので、針を用いてゆっくり瀉血(しゃけつ)する。(原文:ハジメニ針シテ血少ツ々スク。ワノ血ザウエヲチコロス)』と、生薬投与する前に、先ず鍼(針)治療を行うことを教えているのを皮切りに、第11番の『早越(腰や脛が萎える神経系疾患)』・第15番の『肝の腫れ(内臓付近の腫れ)』に対しても、鍼での瀉血治療を最初に薦めています。次の16番にも『風ばれ・火ばれ(怪我による共に膿腫れ)』様な外傷に対しても、鍼で膿水を抜き取る処方も記されています。また病気を診断する方法として、第7番『立の診断』内で、時々しゃっくりをする牛の鼻の下を鍼で軽く穿刺して、牛の発熱具合を診るという、何とも面妖な紹介もされています。
 以上は、牛書内に掲載されている鍼を使っての牛の疾患の治療(診断)でした。当時は、牛に対しても鍼治療が頻繁に行われていた事が、本書から読み取れます。刺す箇所(ツボ)さえ心得ていれば、牛でも鍼1本でお手軽に治療できるという事でしょうが、その反面、鍼を打つ箇所や深浅を間違うと、治療ミスで、牛に慢性的後遺症など大変事なるというリスクもあります。その事を、第14番『針違い(針血開)』にも十二分に注意せよと強調されています(原文:針立チガイ、ノチハナガクワズラフモノナリ)。



 鍼治療は、確かに効果的な医療の1つだと思いますが、やはり動物(人間)に鍼を刺すという危険な治療法ですので、牛書が言う通り、中途半端な知識や技術の持ち主が実施したら健康に関わる大問題になります。そこで難しい知識を要する鍼治療に対して、現在の乳牛の治療に行われているのが、『灸治療』です。筆者も乳牛に対して鍼治療は行った事はありませんが、灸(温灸)治療は担当獣医師から教示してもらい、実施したことが多々あります。灸を据える箇所を知り、乾燥した艾(もぐさ)と火種があれば、治療可能ですので、手頃と言えば手頃な方法です。

 『牛書』にも勿論、灸治療の項がありまして、第17番『胃帰り』という胃病(食欲不振・反芻障害)の際には、『百会(ひゃくえ、別名:百経)に灸を据え治療をしたら、牛の食欲は戻る』と書いてあります。人間の場合、百会という経穴(ツボ)は脳天にありますが、牛と馬の場合は、脊梁(背骨)の尻から少し前の高い所に位置しており、ここを灸で温めると、体内の血行が良くなり、内臓の働きも活性化されるという事です。



 先述のように、筆者も第17番「胃帰り」の様な胃病(食欲不振・ケトン病)や産後の体調不良になった乳牛に対して、灸治療を行った事がありますが、やはり百会には必ずお灸を据えていましたが、他の経穴である、脊梁の中心・両尻の窪み部分・3番目と4番目の肋骨の間にも、病状に応じて灸を据えていました。

 筆者が乳牛に施した灸治療は、艾を直接、牛の経穴上に置くという、いわゆる『透熱灸』ではなく、牛の皮膚と艾の間に、味噌を分厚く塗り、灸を行うという『隔物灸(温灸の一種)』のみでした。そうする事によって、牛に熱過ぎる不快感や火傷を与えることなく、灸治療を行えます。(ただ終盤になると、さすがに熱く感じるようで、尻尾を振り廻して、百会や尻のお灸を落そうとしたりしますが)
 
 上記の様な体調不良の乳牛に対しても、灸治療を平均1日2回を数日行うと、やはり食欲が戻ってまいります。決して気休めではないみたいです。

引用文献:酪農と歴史のお話し

2021-4-23 | コメントは受け付けていません。

乳からチーズへ ~作る技術と美味しさの秘密~

■はじめに
チーズは人類史上最も古い加工食品の一つと言われています。では、乳からチーズへの変化や熟成による味の変化はどのようにして起きるのでしょうか。これらの科学的なメカニズムが分かってきたのは、実はそれほど昔のことではありません。本稿ではチーズを作る技術、そしてチーズの美味しさについて解説しながら、チーズの奥深さについて知ってもらおうと思います。

■1.生活の中のチーズを知ろう
チーズは「ナチュラルチーズ」と「プロセスチーズ」に大別されます。ナチュラルチーズは乳から作られ、プロセスチーズはナチュラルチーズから作られます。2019年度における我が国のチーズ総消費量は約36万t、ナチュラルチーズとプロセスチーズの割合は大体6:4です。一般的にチーズを食べる歴史がまだ浅い地域は、プロセスチーズの割合が高い傾向にあります。フランスやドイツなど多くのヨーロッパ諸国ではプロセスチーズの割合は1割以下であり、消費されているチーズの主体はナチュラルチーズです。

我が国ではこの20年間で飲用乳の一人あたりの消費量は0.8倍程度まで減少していますが、発酵乳とチーズの消費量はいずれも約1.5倍に増加しています(表1)。ただし、国内の発酵乳生産量は増加していますが、チーズ消費量の増加は主に輸入チーズ量の増加によるもので、国産のナチュラルチーズ生産量はこの10年ほど4.5~5万t/年で大きな変動はありません。ちなみに、生乳処理量から計算すると我が国で作られるナチュラルチーズの98%以上は北海道で作られています。

■2.液体を固体にする技術とは
プロセスチーズは固体のナチュラルチーズから作るので、それらを一度溶解させる操作が重要となります。一方、乳から作るナチュラルチーズの基本操作は乳を固める技術であり、それには大きく分けて「酸で凝固させる方法」と「酵素で凝固させる方法」があります。

酸で固める乳製品にはチーズとヨーグルトがあります。一般的には乳酸菌を加えて生育させ、生じる乳酸によって酸性化が進み、カゼインミセル(乳の主要タンパク質であるカゼインは集合体“ミセル”を形成して乳中に存在している)の等電点凝集を起こさせるのが酸凝固の原理です(図1)。ヨーグルトは酸で凝固したものをそのまま利用して食品にしますが、チーズはさらに、固体と液体を分離する操作があります。この固液分離がヨーグルトとチーズの大きな違いとなります。一般的に酸凝固チーズは軟らかく、熟成をさせないフレッシュタイプが主体で、クリームチーズやカッテージチーズがその代表となります。

一方、凝乳酵素と呼ばれる酵素の作用で乳を固める方法があります。世界で作られるナチュラルチーズの70~80%はこの酵素凝固タイプと言われており、熟成を必要とするチーズはこの方法で製造されます。これまでに最もよく用いられた凝乳酵素は生後数カ月までの子牛の第四胃の抽出物である、通称“レンネット”と呼ばれるものです。この抽出物中に含まれるタンパク質分解酵素であるキモシンが、カゼインミセルを構成しているκ-カゼインを部分分解することで、カゼインミセルが凝集します。この酵素によるカゼインミセルの凝集体はミセル同士がカルシウムを介した結合を持つことから、酸凝集物よりもより強固につながっており、出来上がったチーズも酸凝固タイプより硬いものが多くなります(図1)。

■3.チーズの風味はどのように決まるのか
チーズの特徴は原料乳と製造方法で決まります。原料乳の特徴とは動物種(ウシ、ヤギ、ヒツジ、スイギュウなど)や系統(ウシだとホルスタイン、ブラウンスイス、ジャージーなど)の違いと、それらの乳成分の違いになります。製造方法には成分濃度の調整や殺菌の有無、凝乳方法や用いる微生物の違い、そして凝乳物(カード)の処理と熟成に関する条件などが含まれます。この組み合わせを考えるとナチュラルチーズが1,000種類以上にもおよぶと言われることも理解できるかと思います。

チーズの特徴の中でも風味の形成はさまざまな反応の積み重ねによって成り立っています。その中でも風味形成の主役を担っているのが「微生物」と「酵素」です。まず、微生物から見ていきましょう。発酵製品の製造のために使われる微生物を“スターター”と呼ぶことがあります。“発酵を開始させるもの”ということで、チーズ製造においてもなくてはならないもので、その種類としてはほとんどすべてのチーズに使われると言ってもよい乳酸菌と、一部のチーズに使われる乳酸菌以外の細菌類、そしてカビと酵母があります。

乳酸菌は文字通り乳酸を産生する細菌です。フレッシュチーズの酸味と匂いは乳酸菌が産生する乳酸と揮発性の芳香成分によるものです。原料乳自体の特徴を別にすると、酸凝固タイプのフレッシュチーズの風味は使用する乳酸菌で決まると言ってよいでしょう。

一口に乳酸菌と言っても分類上(名称が異なるもの)は数百種類存在していますが、実際に乳製品に使われているのはビフィズス菌を含めても20種類程度でそれほど多くはありません。しかしながら、熟成を伴うチーズの風味形成は非常に複雑です。その理由の一つは、チーズ製造においては複数の乳酸菌を使用することが挙げられます。また、名称が異なる乳酸菌はもとより、同じ名称の乳酸菌でも風味成分の生成能力が異なるものが多数存在しています。さらに、原料乳自体にも乳酸菌が含まれており、殺菌後もその一部は残存していることが分かっています。つまり、性質が分かっているスターター乳酸菌以外に、製造者も把握できていない乳酸菌(“非スターター性乳酸菌”と呼ばれている)がチーズの中に存在していて、両者ともども風味形成に関係している可能性が示唆されています。これに、カビや酵母を使えば風味形成過程はより複雑になりますし、カビや酵母も製造者が使用するものだけでなく、製造施設内に棲すみ付いているものがチーズ表面で生育することもあります。そうなると微生物による風味形成過程はますます複雑になるわけです。

熟成に関与する酵素にも、製造者が加える凝乳酵素以外に原料乳そのものに含まれる酵素と微生物が持っている酵素があります。酵素は加熱殺菌によってその機能は消失しますが、その程度は酵素により異なり熟成中のチーズでも働く場合があります。微生物による代謝反応は酵素反応の結果とも言えるのですが、酵素の種類によっては微生物が死滅した後に細胞内からチーズ中にしみ出して働く場合があります。タンパク質の分解を例にしてみます。チーズ中のタンパク質は分解されてペプチドとなり、さらに構成単位であるアミノ酸まで変化します。アミノ酸の一つであるグルタミン酸はうま味成分として知られており、この分解過程はチーズのうま味形成において非常に重要な変化です。一般的にチーズの乳酸菌数は熟成中徐々に減少しますが、うま味形成が進むのは死滅した微生物からしみ出た酵素が働いているからです。

チーズは作り手が制御できる工程と微生物任せで制御が難しい工程の組み合わせで成り立っています。世界各地で同じ製法(同じ名称)のチーズが作られていますが、製造施設が異なれば風味が異なるのは当たり前ですし、同じ施設で同じように作っても微妙に風味が異なることはよくあることです。図2はチーズの風味形成過程で起きる成分変化を簡単にまとめたものです。芳香成分の中には微生物や酵素反応で生じた一次生成物同士が反応して新たな物質に変化する場合もあり、結果的に様々な物質が生じることになります。

原料の生乳自体、生物が生産するものですし、そこにさまざまな代謝能力を有する微生物と酵素が働いて風味が形成されるわけです。まさに自然の恵に人間の知恵と技術が融合してできる多様性こそがチーズの魅力と言えるのではないでしょうか。


引用文献:酪農ジャーナル電子版酪農PLUS

2021-4-9 | コメントは受け付けていません。

免疫機能を活性化する

牛乳・乳製品には免疫に関与する栄養素が豊富
2020年3月、イギリス栄養士会は、食事によって免疫システムをブースト(上乗せ)することはできないとする声明を発表し、その上で免疫能の正常な機能に関与する栄養素はたくさんあり、免疫機能をサポートするバランスよい食事の維持を推奨しました。日本栄養士会も同様に、いろいろな食品から免疫に関与するすべての成分を摂取するのが、科学的根拠に基づく方法とする声明を発表しました。免疫細胞の新陳代謝に必要なたんぱく質をはじめ、牛乳・乳製品はそれらの栄養素を網羅的に含み、免疫調節活性のチカラになります。

免疫の司令塔の腸内環境を整える乳酸菌
乳酸菌を含むヨーグルトは、免疫細胞の6~7割が密集する腸内環境を整えることで知られています。乳酸菌やビフィズス菌などのプロバイオティクスによる、免疫活性や感染症予防のエビデンス(科学的根拠)はまだ十分に蓄積されていませんが、日本の感染症診療ガイドラインでプロバイオティクスを利用した製剤の有用性について言及されるなど、医学的にも少しずつ評価が高まっています。

ラクトフェリンに炎症制御機能
ヒトの母乳に多く含まれ、牛乳のホエーたんぱく質にも含まれるラクトフェリン。腸内細菌学会ホームページでは、その生理機能としてビフィズス菌増殖作用、抗菌作用、免疫調節作用などが紹介されています。最近の日本の研究で、ラクトフェリンが感染症などに伴う炎症を制御する仕組みも解明されました。

引用文献:ミルクランド北海道

2021-3-2 | コメントは受け付けていません。

ホルスタイン共進会とは?

1.共進会とは

「共進会」とは物の優劣を競う会のことを指します。そのためホルスタイン共進会とはホルスタイン種の優劣を競う大会ということになります。ホルスタイン共進会は、乳用牛の資質の向上と改良増殖を行い、酪農の安定的発展を目的に実施されているものです。つまり泌乳量が多く、長命連産が可能な牛を選抜し、その血統を受け継ぐ牛を生産することで酪農経営の安定に寄与することを目的として実施されています。

なお、共進会で優劣をつける際には、一般社団法人日本ホルスタイン登録協会が定めた「ホルスタイン種雌牛審査標準」という審査基準に基づき牛の容姿や骨格、乳房のバランスなど様々な項目に対して審査が行われます。

また、審査は月齢別、経産・未経産の別に分けて実施され、審査員が一人で行います。



2.共進会用語の解説

共進会では専門的な用語が用いられますので、以下にその解説を行います。

グランドチャンピオン…各部別のチャンピオンの中で最も優れた牛のこと(総合優勝)

リザーブグランドチャンピオン…各部別のチャンピオンの中で2番目に優れた牛のこと(総合準優勝)

チャンピオン…各部別に1位の牛のこと

リザーブ…各部別に2位の牛のこと

ベストアダー…最も優れた乳器の牛に送られる賞

ベストプロダクション…SCM換算乳量でトップのもの

ベストエーリア…地区別対抗戦で最も優れた地区に送られる賞

プレミアエキジビター…共進会で最も良い成績を収めた出品者に送られる賞

ベストリードマン…牛を引くのが最も上手な若者に送られる賞

ジュニア…未経産牛のこと

インターミディエイト…2歳、3歳の経産牛のこと

シニア…4歳以上の経産牛のこと

Jサイア…国内後代検定のこと

引用文献:酪農ジャーナル電子版酪農PLUS

by Rimu

2021-2-18 | コメントは受け付けていません。

乳牛の基本情報 ~歯~

牛は産まれてから2週間ほどで乳歯が生え揃い、生後5~6カ月ごろから4歳ごろまで段階的に永久歯に生え変わります。

歯は切歯、犬歯、前臼歯および後臼歯の4種類に分けられ、乳歯から生え変わった永久歯は総数が32本になります。乳歯の時には後臼歯がなく、総数は20本です(下記の牛の歯式を参照してください)。永久歯の本数は人と同じですが、歯列は大きく異なります。



牛の歯式*

切歯 犬歯 前臼歯 後臼歯
上顎 0 0 3 3
下顎 4 0 3 3


人の歯式*

切歯 犬歯 小臼歯 大臼歯
上顎 2 1 2 3
下顎 2 1 2 3


*歯は左右対称に生えるので、歯式は片側の歯の本数を示します。



反芻動物の上顎には切歯と犬歯がなく、その部分には歯肉が硬くなった歯床板があります。下顎の切歯と上顎の歯床板はそれぞれ包丁とまな板の役割をしており、舌で巻き取った草を歯床板に当てて切歯で切り、口腔内に取り込みます。実際には、ヤギやヒツジはこのように採食をしますが、牛の場合は舌を使って引きちぎってしまうことがほとんどです。そのため、ヤギやヒツジが食べた後の草は揃った高さになりますが、牛が食べた後の草は高さが不揃いでギザギザになります。

下顎には本来犬歯が1本ありますが、肉食動物や雑食動物の様に鋭く尖った形ではなく、切歯に隣接して並び、切歯に近い形をしています。また、肉を切り裂いたりする犬歯本来の役割を持っていないことから、切歯の中の1本として扱われるのが一般的です。

臼歯は上顎と下顎で噛み合う形状になっており、繊維質の多い牧草など硬い飼料をすりつぶすのに適しています。

犬歯と第1臼歯の間には歯がない部分があり、槽間縁そうかんえんといいます。そこから口腔の検査を行うことができます。


引用文献、写真引用: 酪農ジャーナル電子版酪農PLUS

2021-2-7 | コメントは受け付けていません。

日本の黒毛和種の歴史は一頭の但馬牛から始まった


全国の黒毛和種は、一頭の「但馬牛」から始まっているということをご存知でしたか?
平成24年「全国和牛登録協会」の調査で、日本の黒毛和種の99.9%が香美町小代(おじろ)区で産まれた「田尻号(たじりごう)」という一頭の牛から受け継がれていったものであると証明されました。
そもそも、但馬牛(たじまぎゅう)って知ってますか?
但馬牛と聞くと、「松坂牛、神戸牛、近江牛、佐賀牛、飛騨牛とかの素牛だよね?」とか「詳しく知らないけど、日本の和牛の原点だよね?」と答えられる方が多いと思います。
これらの回答も正解なのですが、「但馬牛をもっと詳しく知ってもらいたい!」と思い筆を走らせてみることにします。

但馬牛とは
但馬牛は、兵庫県産の黒毛和種のことで、兵庫県が指定する雄牛(県内に12頭)のみを歴代に亘り交配し誕生した牛で、県内で肥育された食用牛が「但馬牛」と呼ばれるものとなります。
その中から、一定以上の条件をクリア(霜降り度合いや歩留まりなど)した但馬牛のことを「神戸牛」とか「神戸ビーフ」と呼んでいます。つまり、神戸牛は但馬牛の中の一つのブランド(最高級)ということになります。
神戸牛となるには、霜降りという脂分の数値等が基準となっているので、赤身肉の美味しさにも着目されてきた昨今、神戸牛が但馬牛の中の最高牛肉という単純なものではなくなっているのも事実ですが、神戸牛のおかげもあって但馬牛の知名度も上がっています。

和牛の歴史、そして品種改良
ここからは、和牛の歴史を紐解きながら説明していきます。
江戸時代までの日本では、牛は食用としてではなく、農耕用として飼育されていました。それはここ香美町でも同じで、一軒に数頭の牛を飼い、一つの労働力として家族同様に育てられ、共に暮らしてきました。
時が経ち、明治初期、日本は文明開化とともに牛肉を食べる食文化が広まりました。それと同時に小柄な日本の牛を外国の牛のように体格の良い牛にしようと、品種改良(外国種の雄との交配)が盛んに行われていったのです。
ところが、これが大失敗。気性が荒く、働かず、病気も多い、そしてなにより肉質がよくないという残念な結果となってしまい、但馬牛も含む和牛の純粋種が絶滅の危機に直面してしまいました。

田尻号が「和牛の偉大なる父」と言われる所以
終戦後、元の和牛を取り戻そうと全国で本格的な取組みが始まりました。が、時すでに遅し。国内には純血の黒毛和種が残っていなかったのです。
和牛復活を諦めかけていた時、奇跡的に香美町小代区の山深い里(熱田地区)に外国種や他の血統との交配を逃れた純血の但馬牛が4頭残っていることが分かったのです。そこは、標高が700mもある高地で、他の村とも遠く離れていたこともあり、雑種化を逃れることが出来たのです。これが、一度は消えてしまったかに思われた黒毛和種を復活させる大きな要因となりました。まさに「小代の地理的要因が生んだ奇跡」と言えるでしょう。
そして、残った4頭の内の1頭の子孫として生まれたのが「和牛の偉大なる父」と言われる「田尻号(雄牛)」です。田尻号は、肉質のよい強い遺伝子をもった種牛で、当時はまだ凍結精液などなかった自然交配の時代、なんと生涯で約1500頭もの子孫を残しました。この田尻号のDNAが、今の黒毛和種の99.9%のルーツとなっているのです。
「奇跡の4頭」と呼ばれるこの牛たち。そして「田尻号」。この牛たちがいなかったら、現在世界中に広がる「和牛」は存在していなかったでしょう。

引用文献、写真引用: World One

2021-1-28 | コメントは受け付けていません。

牛乳をよく飲む人には……

牛乳の機能性

最近の研究で分かった!

牛乳をよく飲む人にはサルコペニア認知症が少ない

牛乳を毎日コップ1杯以上飲む人は、まったく飲まない人に比べ、総エネルギー、カルシウム、体重1キロあたりのたんぱく質摂取量が多く、筋肉や骨に必要な栄養素が充足できている傾向が認められました。

筋肉が減弱し、転倒や介護の原因となるサルコペニアの保有率も、牛乳をあまり飲まない人を【1】とした場合、よく飲む人は【0.42】まで低下した。

別の疫学研究では、牛乳・乳製品の摂取量が多い人は、アルツハイマー型認知症・血管性認知症の発症率が最大3~4割低下することも報告されています。

これらの根拠に基づき、健康長寿を目ざす食習慣においても、毎日コップ1杯~2杯の牛乳摂取が進められています。

引用文献:ミルクランド北海道

2021-1-17 | コメントは受け付けていません。

牛乳の製造工場・『乳房』

今更ですが皆様が日々飲食する牛乳は乳牛から供出されています。乳牛を牛乳製造工場に例えるならば、その最重要中心機関が『乳房』です。今回は乳房について掘り下げて紹介してゆきたいと思います。
 乳牛の乳房と乳頭が4つあり、同じ乳房であっても各々独立しております。乳房内で牛乳が造られ貯められ、乳頭から牛乳が出る仕組みです。何度も申し上げておりますが、牛乳は『乳牛の血液』です。大量の血液は心臓が噴出ポンプ役を担って、各々の乳房内部へ運ばれて、血中内から牛乳の原料となるカルシウム・脂肪等が抽出され牛乳へと造られます。その働きを行う根幹が『乳腺細胞』という箇所です。乳腺細胞に、心臓からの血液(アミノ酸・ブトウ糖など)・全身から体脂肪(脂肪酸)・第一胃からはVFA(揮発性脂肪酸)が集積されて、牛乳に変換されるという仕組みになっております。先に乳牛を牛乳製造工場、乳房を最重要中心機関として例えましたが、乳腺細胞は牛乳製造工場を動かす『根幹モーター』と言えるでしょう。

 乳牛の乳房が大きいのは誰の眼から見ても明らかですが、決して大きい乳房=沢山牛乳が出るという訳ではありません。乳房が大きいにも関わらず、いざ搾乳をしてみると、予想を下回る少乳量である乳牛が多々おります。この原因の1つに、牛乳製造工場(乳牛)の根幹モータである乳腺細胞の未発達等の問題があります。母牛の遺伝影響もありますが、特に初産等の出産経験が少ない乳牛によく見られます。他の問題では、乳房が異様に大きいのが仇となり、乳房と乳頭の形がバランスが悪くなり、ミルカーでの搾乳が上手く行えず、結果乳房炎になってしまうケースもあります。またこれは多くの出産している高齢乳牛にある問題ですが、乳房と後肢を繋いでいる筋肉が退化し乳房が下へ垂れ下がってしまう事によって、ミルカー搾乳が上手く行かず、乳房炎になり易くなる事もあります。

引用文献:酪農と歴史のお話し

2021-1-2 | コメントは受け付けていません。

新年の御挨拶



あけましておめでとうございます。


本年もより一層の心をこめて牛の健康促進の為、誠心誠意『牛の喜ぶ』削蹄を一牛一牛努める所存でございます。


昨年中のご愛顧に心よりお礼申し上げますとともに、本年度もより一層のご支援を賜りますよう、スタッフ一同心よりお願い申し上げ、新年の挨拶とさせていただきます。


㈱菅原道北削蹄所 菅原 洋充

2021-1-1 | コメントは受け付けていません。

冬の安全運転講習会

令和2年12月28日(月)事務所にて冬の安全運転講習会を行いました。

講師は当社の渡辺で車の原理や理論など実際のシュミレーターで冬道をどう運転したらいいかをスタッフ一同学びました。

その模様をフォトでお伝えします。







by Rimu

2020-12-28 | コメントは受け付けていません。

反芻(はんすう)と生乳が出るしくみ


牛の胃袋はおなかの部分の 4 分の 3 を占めるほどあり、4 つに分かれています。一番大きな第 1 胃は、160リットルもの容積があります。口から入ってきた草などは、まず第 1 胃に収まります。ここで数々の微生物に
よって、繊維分を分解し、微生物を増殖させながら食物を発酵させます。 反芻をくり返したのち第 2、3 胃で繊維分をさらに細かくし、第 4 胃で消化します。ここで、食物の栄養分と自分の第 1、2 胃で増えた微生物を消化し、栄養分として取り込みます。自分の体に発酵工場を持っているのが牛の胃の特徴です。

反芻(はんすう)
牛は食物を消化するため、一度第 1 胃の中に入ったエサを口に戻してゆっくりとすりつぶします。これを反芻(はんすう)といいます。1 日の反芻時間は 6~10 時間で、1 分間に 40~60 回もかみます。牛がいつでも口を動かしているのはそのためです。かんでいる間に、唾液(だえき)が分泌され、この唾液がエサを湿らせてのみ込みやすくしたり、胃の中の微生物の働きを活発にして消化を助ける働きをするのです。唾液は 1 日に 90~150 リットルも分泌されます。

乳房
乳房は生乳を作る大事な器官です。実際に生乳を作っているのは、乳房の中の乳腺細胞です。ここでは血液から運ばれてきた様々な栄養素を取りこんで、生乳の成分に作り変えます。1 リットルの生乳を作るために、400~600 リットルもの血液の循環が必要なのです。1 日 45kg の生乳を出す高乳量牛では、乳房の中を通る血液の量は 22.5 トンにもなります。

引用文献:中央酪農会議

2020-12-24 | コメントは受け付けていません。

令和2年度 片山削蹄所 秋の大収穫祭!!

令和2年度9月25日(金)北見市 片山削蹄所事務所にて今年も秋の大収穫祭が行われました。
その模様をフォトでお伝えします。








みなさんお疲れ様でした。

2020-9-30 | コメントは受け付けていません。

千葉県は日本の 酪農の発祥地

嶺岡牧と白牛酪考

千葉県は、関東地方の南東側で房総半島と関東平野の南部にまたがり平野と丘陵が大半を占め、海抜 500m以上の山地がないのが特徴となっています。標高が低いため全体的には温暖な気候で太平洋側気候に属しています。しかし一年中温暖な海洋性気候である南房総に対して下總台地など内陸部は内陸性気候で冬は寒く、山地が無いにも関わらず意外にも多様性にとんでいます。律令制以来の「房総三国」である上総の国、安房の国、下総の国の一部から成り立っています。産業では醤油の発展の歴史や生産量が群を抜いており、温暖な気候であることや大消費地が近いことから、農業が盛んであります。加えて三方が海に面していることから水産業も盛んになっています。第 8 代将軍徳川吉宗が嶺岡牧に白牛 3 頭を放ち、この牛から搾乳して造った「白牛酪」によって、わが国の乳文化が 5 世紀ぶりに甦るとともに新しい乳文化が始まりました。ここで始まった白牛酪の製造や白牛の飼育技術などが、その後の日本酪農につながっていることから、嶺岡牧は日本酪農の発祥地として、千葉県文化財保護条例によって 1963(昭和 38)年に史跡として指定されました。嶺岡牧に放された白牛は除々に繁殖し、御小納戸頭・岩本正倫が白牛調査のため嶺岡牧についた 1792(寛政 4)年には白牛が 70 頭まで増殖していたので、幕府侍医桃井源寅に「白牛酪考」を箸述させました。この書物は表紙を含め 19 枚の小書に過ぎませんが、白牛のその後の運命や白牛の乳利用と効能について記述されているのでわが国最初の乳製品専門書として大変貴重なものといえます。また、序文のなかで岩嶺岡牧と白牛酪考 本正倫は白牛の乳から乾酪を造り、第 11 代将軍徳川家斉に献上したところ大変喜ばれ、さらに継続して造り、庶民にも施すよう命ぜられたことが記載されています。1793(寛政 5)年に野馬掛になった岩本正倫は江戸の野馬方役所に牛舎と牛酪製造所を設け、嶺岡牧より搾乳できる白牛母子を野馬方役所に送り、そこで白牛酪を製造しました(1867(慶応 3)年迄製造が続いたようです)。この白牛酪がどういったものであるのかについて、「白牛酪考」のなかでは「乾酪」であることや、「…白牛酪一魂を贈られる…一日三度用い…」と記されているように、分割できるような形をしていたこと以外は不明であります。しかし、3 代先の嶺岡牧の牧士触頭格であった永井要一郎が残した談話では「…白い牛の乳を鍋に入れて砂糖を混ぜ、火にかけて丹念にかき混ぜながら石鹸位の固さになるまで煮詰めてもので、亀甲型にしてあった。そして非常に貴重なもので、病人などはそれを削ってお茶で飲んだりしたといわれている。…私もごく幼少の頃、祖父につれられていって、それを舐めたこともあったが、今考えてみても非常にうまかった。この白牛酪を作るのは青銅の鍋に限っていた…」となっており、また江戸から嶺岡にあてた手紙になかで「柔らかい中に箱につめると、特に黴がひどくなるから充分固くして送ってほしい」との意味が述べられていますので、多少その実態が想像できそうです。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-9-22 | コメントは受け付けていません。

明治期からの乳製品を 食べた山形の習慣(山形県)

興譲館と米沢牛
山形県は日本海に面しており、東側一帯は奥羽山脈、西側には朝日連峰がそびえています。このように県内の大半(85%)を山地が占め、森林と農地の割合が多いのが特徴です。日本海側気候なので豪雪地帯ですが、緯度の割には温暖です。特に、夏は熱帯夜になるほど蒸し暑く、冬は温暖で日照時間が短いという特色があります。山形県の古墳文化の到来は早く、今でも各地に現存しています。また、越後とともに出羽の国として栄えたことは既知のとおりです。近代においては戊辰戦争の戦後処理として、米沢、上山の各藩が減封するなど幾多の再編を経て、現在の山形県が誕生しました。山形県の畜産の歴史は古く、特に“産牛”については米沢藩第四代藩主・上杉綱憲のときの 1681(天和元)年に、牛への課税の達しがありました。置賜地方では既に南部から“上り牛”を導入しており、農耕を目的に牛の飼養が奨励されていました。

英国人教師が立役者
上杉鷹山が創設した藩校が 1871(明治 4)年に「米沢興譲館洋学舎」として設立されると、洋学科教師に英国人のチャールズ・ヘンリー・ダラス(1842~ 94)が招しょうへい聘されました。ダラスは教きょうべん鞭を執る傍ら、畜牛を飼養したことで有名でした。任期を終えたダラスが 1876(明治 9)年に横浜居留地に帰るとき、米沢牛を 1 頭持ち帰り、英国人仲間にごちそうしたところ「大変美味」と好評だったとのことです。これが興譲館と米沢牛英国人教師が立役者後に米沢牛が有名になった由縁です。文明開化が漂う横浜で、ダラスが米沢牛を紹介した功績をたたえて“米沢牛の恩人”という顕彰碑が米沢城址内に建立され、今でも地元の人たちは彼の遺徳をしのんでいます。

牛乳事業の始まり
一方、牛乳事業において鹿野兼次の役割を無視できません。蘭医で将軍の侍医であった松本順らが 1872(明治 5)年に旧酒井家神田柳原中屋敷に牛舎を建て、鹿野はその牛舎で搾乳法を学び、牛乳を搾り、病院用に提供していました。1876(明治 8)年には山形県の要請で旧県庁近くに牧畜場をつくり、自らその監督を務めて牛を飼養し、品種改良の研究に没頭するなど明治中期の畜産発展に貢献しました。その後の 1882(明治 15)年、息子の鹿野善作が父(兼次)の事業を継承しました。酒田で搾乳業を始めるとともに、「蕨岡牧場」と共同で純良の牡牛を放牧し、従来の和牛の改良推進を図りました。一方、1894(明治 27)年に高畠町の梅津勇太郎(1876 ~ 1940)は宮城県刈田郡七ヶ宿に「大野沢牧場」を開設し、エアシャー種牛を導入して牧場経営を行いました。さらに、1899(明治 32)年には牧場適地を選び、山林 400 町歩を借り受けて放牧を開始しました。同時に、牛を飼養するために数十種の牧草種子を購入して試作を行いました。この種子を牧場に播種したところ良好な栽培結果を得たため、牛の放牧や種付けを嘱託する人が増加し、1906(明治 39)年には 300 余頭が飼養されていたといわれています。1900(明治 33)年、高畠町の大河原友吉は岩手県からホルスタイン種牛を初めて導入しました。そして、1901(明治 34)年には奥羽線の開設により、千葉、岩手、北海道などの酪農先進地から乳牛の導入を図ったのでした。

乳牛の改良研究が本格化
1904(明治 37)年には新庄市高壇に「山形県種畜場」が創設され、主として馬産育成の拠点となっていました。1911(明治 44)年には長井市今泉に分場が設置され、ホルスタイン種およびエアシャー種の種牡牛が導入され、乳牛の改良研究が行われました。また、鶴岡町の三井四郎兵衛も牛を飼い、牛乳を販売していました。彼の息子の弥七郎は 1896 ~ 1901(明治 29 ~ 34)年まで東京農科大学および下総御料牧場、さらに東京付近の搾取家で実地研究を行い、短角種 6 頭を買い入れて家業を助けました。当時はゼルシー種、短角種など 80 余頭を飼養していました。しかし、牛にツベルクリン反応検査の注射を行ったところ、結核病にかかってしまうなど苦労の連続でした。それでも 1905(明治 38)年には搾取業を再開するとともに、機械を導入して殺菌牛乳を販売しました。

粉ミルクの製造
1912(明治 45)年に、高橋萬次郎らが「和田製乳所」を創立しました。さらに、1913(大正 2)年に梅津勇太郎らがバターおよび粉乳を製造して成功すると、1919(大正 8)年には酪農家 192 人の出資金10 万円で農民資本「日本製乳株式会社」が設立されました。こうして山形県で初めて粉乳製造が開始されたのです。製品は「おしどりコナミルク」の商標で、東京・銀座の洋酒缶詰問屋・長井越作が一手に販売しました。初めは製造技術も幼稚で、いろいろ苦心しましたが、当時の北海道大学教授の宮脇富の指導を受けるに及んで、着々と品質の向上・改善が図られました。1931(昭和 6)年には画期的な遠心式噴霧乾燥装置を導入して実用化を図ったことから、戦前には「粉ミルクといえば“おしどり”」と言われるほどでした。戦後の酪農経営は、高畠、上山、山辺、成生、柴橋地方などを中心に発達しており、ここから生産された生乳の処理工場として、当時は「北部酪農協」「山形酪農協」「大谷農協」「東北酪農協同株式会社」「明治乳業株式会社」、そして前述の「日本製乳株式会社」などがありました。その後、組織再編などが行われて今日に至っています。

八百屋が販売した煉粉乳
このように、山形県では乳牛の飼養および粉ミルクの製造には苦難の歴史がありました。一方で、明治20 年代に既に煉れん乳や粉乳を販売していたという実績もあります。それが当時の鶴岡町荒町で商売をしていた「八百屋市郎治商店」(八百屋は雅がごう号)です。同店の引ひきふだ札(チラシ)を見ると、ミルク各種(煉れん乳、粉乳など)のほかに、和洋缶詰、乾物、こんにゃくなどを取り扱っていたようです。今でいう食料品店であったと思われますが、こうした新しい商品も既に販売していたのです。このように、この地の人々は明治時代から既に乳製品を食べる食生活を送っていました。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-8-31 | コメントは受け付けていません。

酪農乳業発展史(北海道)

■お雇い外国人から学んだ酪農乳業

函(箱)館の開港と牛乳
1855(安政 2)年、函館は、燃料、水、食料などの補給のために開港しました。アメリカ貿易事務官エリシャ・E・ライスは、大統領の親書を持って捕鯨船に乗り、1857(安政 4)年 4 月にやってきました。箱館奉行村垣淡路守の公務日誌や日本古文書館 16巻によると、ライスの功績は数々の欧米文化を伝えたことだといわれています。ライスは西洋種子類の植え付け、緬羊の飼育法、パン・煙草の製造法など新知識を紹介しました。何よりも特記することは牛乳の搾り方を教えたことでした。彼は牛乳を飲むため、箱館奉行に願い出て領事館構内(現在の函館市立弥生小学校周辺)で牝牛 2 頭を飼育しました。そして牛乳飲用について多くの人々に奨励しました。これが北海道の乳文化の始まりであると記録を残しています。

お雇い外国人の功績
明治新政府にとって、ロシアの南下に対する防衛線を構築するため、北海道開発が重要な課題でありました。このため札幌に開拓使が出来るまで東京都港区芝の増上寺の境内に開拓使仮庁舎を置き、1869(明治 2)年に開拓使の仕事が始まりました。1870(明治 3)年、政府は、黒田清隆を開拓使次官に任命しました。黒田は開拓に長じる外国人の雇用と開拓用の農器具などの購入のため、1871(明治 4)年にアメリカに渡り、ホーレス・ケプロンを開拓使最高顧問として招聘するとともに、開拓に必要な家畜、飼料種子、機械を購入しました。ケプロンには外国人の起用、人選、職務など多くの権限が与えられていました。そのケプロン自身の開発構想に基づき、それに必要な技術者が学識経験者として起用されました。北海道の開発政策を推進する有能な日本青年の人材育成が必要であるとして札幌農学校が設立され、マサチューセッツ州立大学学長クラーク博士に副校長として着任することなどを依頼しています。ケプロンの斡旋および推挙によって官費で雇い入れたアメリカ人は、技術および学識経験者など 48 名でした。特にエドウィン・ダンは酪農乳業に貢献したお雇い外国人でした。1873(明治 6)年に、開拓使が購入した乳牛と共にエドウィン・ダンは来日しました。東京第 3 官園(現在の東京都渋谷区広尾 4 丁目の日赤医療センター付近)では家畜の取扱法、農具の使用法、乳製品の製造法を、七重官園では馬の去勢法などを教えました。そして真駒内牧牛場を建設して、ここに 100 余頭の乳牛を飼養しました。さらに 100ha の飼料畑で牧草を栽培し、オーチャードが適種であると認められました。またバター・チーズ・煉乳の製造法の指導も行いました。さらに馬で御す洋式農具の使い方も指導しました。1883(明治 16)年にエドウィン・ダンは北海道の農業・畜産指導の功績で勲五等双朝光旭日章を受章しました。これらの功績について、エドウィン・ダン記念館には多くの資料が現在も保存されています。

尾張士族が興した八雲の酪農郷
より浅山八郎兵衛門が移住者とともに開拓の鍬をおろしたのが始まりです。次いで 1878(明治 11)年、旧尾張藩主・徳川慶勝が禄を離れた家臣たちの授産対策を目的に 150 万坪の土地の払い下げを受けました。そして、この地に理想郷の建設を目指して旧藩士たちを移住させ、本格的に開拓が始まりました。1878(明治 11)年から 1888(明治 21)年までに 114 戸 4,000人が移住して、開拓が進められました。その中には旧尾張藩の侍たちが造った「養牛舎」で搾取技術を身に付けた士族も参画をしました。徳川家の移民に対する援助は強力なものでありましたが、これは尾張藩の「めんつ」をかけたものであったといわれています。初代の徳川農場長になった大島鍛は札幌農学校を卒業し、科学的農業とキリスト教的論理を身に付けた指導者であったといわれています。徳川家開墾地の事業は 1907(明治 40)年に一段落し、無償で土地をもらった 75 戸の士族が定着しました。1885(明治 18)年に渡英した徳川義礼に随行した吉田知行は、牧草をまき、乳牛の飼育を学んだり、奨励したりして、八雲の酪農の指導を行いました。このように町民は愛知県出身者の子孫が多く、今でも徳川尾張藩士の末裔として誇りと自尊心を持って酪農に従事しているといわれています。

トラピスト修道院と酪農の発展
トラピスト修道院(北斗市三ッ石)は、1896(明治 29)年に、フランスのノルマンデーの修道院より男女の修道士が来日し、誕生しました。構内の荒地の敷地を開墾し乳牛を飼い、乳製品の製造を行う自給自足の生活でした。その頃は日清戦争の最中であったので軍事探偵とか、流浪罰人などといわれ、土地の人々にはなかなか理解が得られませんでした。しかし、荒地と原野を開拓しながら農民に酪農を奨励すると、多くの人々が心を開きました。このトラピスト修道院の指導者であったジョアン・パプチスクはオランダ生まれで、牧場管理人を経てローマで修道士になり北海道にきました。1897(明治 30)年に道産雑種牛 12 頭から酪農事業を始めました。1900(明治 33)年に付近の農家から生乳を集め、バターの製造販売をしました。1902(明治 35)年に弟タルシスが、1908(明治41)年に兄ジョアンがオランダに出向き、ホルスタイン種の牡牛 2 頭および牝牛 8 頭計 10 頭購入してきました。トラピスト修道院による乳牛の輸入は大変話題になりました。これらを基礎牛にして乳牛改良に努め、附近の農家に無料で貸し付け、仔牛が生まれたら仔を返す「仔分法」でしたので農家に大変喜ばれました。さらに乳牛飼養が盛んになると 1907(明治 40)年、各区域にトラピスト付属渡振牛酪協会が設立されました。しかし生乳の運搬に不便であったため、集乳所で手回しクリーム分離機を用いてクリームのみ本院製造工場に送り、バターを製造しました。その頃、バターの評判もよく東京・神戸・長崎で販売されました。このようにして北海道の酪農発展の推進力になったのでした。その他、明治期の幕開けとともに、開拓使のもとで近代酪農を導入し、多くの酪農家と関係者が努力を重ねました。特に町村金弥(1859 〜 1944)、宇都宮仙太郎(1866 〜 1940)、黒澤酉蔵(1885 〜1982)の業績は高く評価され酪農王国を支えた酪農御三家といわれています。

by Rimu

引用文献:Jミルク 酪農乳業発展史

2020-8-13 | コメントは受け付けていません。

2024 菅原道北削蹄所|北北海道を幅広くエリアカバーする牛削蹄所です . | Blue Weed by Blog Oh! Blog